2013年7・8月号『おおきな空洞』

『おおきな空洞』

 

おおきな空洞

「人間の心にはどんなものも埋めることができない大きな空洞がある。それを埋めることができるのは神だけだ。」これは、哲学者パスカルの言葉です。

私は、高校三年生の時、洗礼を受けました。高校生活の全てを注ぎ込んだ部活動で、ある同級生とどうしてもうまくいかず、彼が友だちの少なかったことをいいことに、自分は友だちが多いように見せつけ(実際はそれほど多くなかったのですが…)、また、時に彼が友だちと一緒にいる姿を見ると焦り、その一方で独りでいる姿を見ると安心し優越感にひたる、そんな自分がおりました。

また、私の心はいつも「寂しさ」を抱えていました。友だちと電車で学校に行き来する。大騒ぎもする。でも、私の心はいつもどこかで笑っていませんでした。私は、何とか心を満たそうと、CD屋に頻繁に足を運ぶようになりました。そして試聴できるCDを次から次へと聞き、「これだ!」と思うものを小遣いを貯め購入しました。最初に買ったCDは、さだまさしの『家族の肖像』でした。買って家に帰り、CDラジカセの前に座り込み、聞き続ける。そして癒される。でも、その癒しは、二週間と持たず、再びお店に行き、試聴し、「このCDだ!」と購入する。邦楽、洋楽、様々なものを聞きましたが、私の心の奥の奥にある得体の知れない渇きを根本的に癒すことはありませんでした。

 

かわかない水?

イエス・キリストは、仰せられました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで、泉となり、永遠のいのちの水がわき出ます。(ヨハネ4:13~14)」

これは、井戸の水を汲みに来た一人の女性に向けて語られた言葉です。彼女は五人の男性と結婚し、別れ、六人目の男性と同棲し、人に心を閉ざし人を避け、暑さの最も厳しい、人のいない正午に水を汲みに来ていました。

主イエスは、仰せられました。「この水(井戸の水)を飲む者はだれでも、また渇く」と。「この水」とは、この世が与える水を表しています。趣味に没頭する、友だちと語り合う…。彼女にとっては男性の愛だったと言えるでしょう。それらは確かに私たちを一時は力づけますが、また渇き、私たちの心の根本を癒さないのではないでしょうか。しかし、主イエス・キリストが与える水(救い)を飲むものは、誰でも決して渇くことがなく、心の内で泉が湧き出ると仰せられたのです。

彼女は、初め何のことを言っているのか分かりませんでした。しかし、次第に心がイエス・キリストに開かれていったのです。そして、彼女は、井戸の水を汲む水瓶を置き、街中に出て行き、人に会い、イエスについて話すようになったのです。心の中の泉が湧き溢れ出たのです。

 

魂のうるおい

癒えない魂の渇きは、造り主なる神から離れている罪のためである、と聖書は告げます。イエス・キリストは、その私たちを愛し、私たちの罪の身代わりに十字架に架かり死なれ、そして復活され、私たちを神に立ち返らせ、神とともに生きる者とし、魂を慰め、潤おし続けて下さるのです。

「神の御前には静けさがある」イエス・キリストを通し、神の御前に歩む幸いに生かされていきたく願います。

 

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