2013年9・10月号『水は、蛇口だけでは…』

『水は、蛇口だけでは…』

 

水は、蛇口だけでは…

水は、蛇口だけでは出てきません。水源につながり、水道管を通し、水は出てきます。

イエス・キリストは、一つのたとえ話をされました。

あるユダヤ人が、エルサレムからエリコに下る途中、強盗に襲われ、強盗は、彼の着物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにして逃げました。

ユダヤ人の祭司が、その道を通り、彼を見ましたが、自分が襲われることを恐れたのか、反対側を通り過ぎて行きました。続く、他のユダヤ人も彼を見ましたが、同じく反対側を通り過ぎて行きました。

しかし、あるサマリヤ人が、旅の途中、彼を見、断腸の思いで近寄り、傷に手当をし、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行き、介抱したのです。

イエスの時代、ユダヤ人とサマリヤ人は、犬猿の仲でした。その溝は、一日や二日のものではなく、数百年に及ぶ根が深いものでした。負傷したユダヤ人は、サマリヤ人が近づいてきたとき、「殺されるにちがいない」と思ったことでしょう。しかし、サマリヤ人は、自分を蔑み続けてきたユダヤ人を介抱したのです。

イエスは、たとえ話を終え、告げました。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 

私たちの心

私たちは、日々の歩みの中で、たとい自分を敬い信頼してくれている人であっても、ちょっとした言動がゆるせなかったり、自分の思うような反応をしてくれず不平不満になったりします。

まして、自分を蔑み非難し続ける人、自分に攻撃的な人を愛すること、その人が苦しんでいるとき近寄り、寄り添い、隣人になることは到底できません。その人の苦しみを心密かに喜んでしまったり、愛せずゆるせない関係のままでいてしまいます。

いいえ。そんな自分に気づかず、「自分は結構いい人間だ」と思い込んでいることのほうが多いのかもしれません。でも、ある困難の中で、愛の全くない自分であることに気づかされ、愕然とすることがあるのです。

 

できない、けれども

敵を愛し、隣人になることを教えられ、そうできたら何の苦しみもありません。

「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている(聖書)」

そうです。イエスのたとえ話と最後の言葉の真意は、「できない」をまず認めさせることでした。でも、その「できない」は、絶望で終わりません。「できない」を認めることは、辛いことですが、希望の第一歩です。自らへの絶望は、神へと心を向かわせます。

 

水源につながる

神は、私たちを愛しておられます。人を愛せない私たちを。神は、その私たちの罪の身代わりに独り子イエス・キリストを十字架に架け裁かれ、私たちの罪をゆるし、癒し、神とともに生きる者として下さいます。

神とともに生きていく中で、神が変え難いどうしようもない魂を造り変えて下さるのです。水源につがって水が出てくるのです。神によって自らを活かし、人を活かす歩みへと導かれていくのです。

10月19日(土)20(日)、廣瀬薫師を迎え、「自分を活かし、人を活かす」とのテーマで、秋の特別集会を行ないます。足をお運びください。神に活かされる喜びの人生を、ご一緒に見つけましょう。

 

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