『剣によらず愛により』
これ以上飲んだらお父ちゃんが
以前、ある主婦の方より朝日新聞に次のような投稿がありました。
「小五の娘は夫が大好きだ。だから父親が深酒をするにつれて変わりゆく姿をことのほか悲しむ。ある晩、またもや夫が飲み過ぎた。そして、いつものぐずりと騒ぎがはじまった。その様を見ていた娘は、でんとおかれた焼酎の一升びんを抱きかかえると『お母さん、はよ隠そう、どこがええ』とうろうろしながら言う。『返せ!』と夫。『お父ちゃん、もうあかん、これ飲んだらアホになる!』と娘。よろける夫と踏ん張る娘は一本のびんを奪い合う。娘の顔がくしゃくしゃにゆがみ、涙が夫の手をぬらす。夫にびんを取られた娘は、ワッと泣きながら夫にしがみついた。『お酒がお父ちゃんを気違いにするんや。はよ体から出さなあかん。はよ出て』と、酒をたたき出すかのように夫のからだをぶつ。夫は娘の体当たりの抗議に酔いも半減してその場は収まった。私はその時娘に負けたと思った。…酒を減量させるために流した同じ涙でも、娘と私のものは違っていた。私のは憎しみ、悲哀、後悔と自分本位の気持ちが含まれ、娘の方は『これ以上飲んだら、お父ちゃんが、お父ちゃんでなくなる』という父親のためのものだった。…娘の涙は本物だった。」
剣を取る者はみな剣で滅びる
イエス・キリストは、弟子のイスカリオテ・ユダに裏切られ、ゲッセマネの園で、ユダに先導されてきた人々に捕えられようとしていました。
弟子のシモン・ペテロは、持っていた剣を抜き、捕えに来た大祭司のしもべの片耳を切り落としました。
その時、主イエスは、ペテロに仰せられました。
「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」そして、主イエスは、自分の命を狙った大祭司のしもべの耳をお癒しになられたのです。
彼の名は、「マルコス」。聖書にその名がはっきりと記されているのは、恐らく、彼が後にイエス・キリストを信じる者となり、教会の中で知られていたからでしょう。
愛の力
敵する相手が変えられるのは、叱責でも、正論でもないでしょう。ましてや剣ではありません。愛のない叱責や正論は、いよいよ相手の心を閉ざし、恐れを生じさせます。剣を取るならば、必ずや相手から剣が振りかざされます。相手は、自分の心の鏡です。
当時のユダヤ人は、支配国ローマの体制を変えてくれる力強い政治的王を期待しましたが、主イエスは、力による政治的改革ではなく、愛によりひとりの人の内側を新しく造り変えられました。
イエス・キリストは、私たち一人ひとりをどこまでも愛し、ご自身の命を十字架で差し出し、罪を赦し、神を天の父と呼ぶ神の子どもとして下さいます。
主イエスは、「迫害する者のために祈りなさい。」と教えられました。天の父なる神は、祈りの中で、相手ではなく、私たちの魂を愛に変え始めて下さいます。なぜなら、神は愛だからです。神の愛には、私たちを罪の力から救う全能の力があるからです。
“剣によらず愛により” 平和を心に刻むべき夏、主イエスの十字架の愛を見上げたいと思います。