2015年夏号『惜しみなき愛』

どうして人は

どうして人は、自分のプライドを傷つけられると、こうも怒りを抑えられないのでしょう。

どうして人は、競い合い、勝ち続けようとするのでしょう。

どうして人は、自分の意見に固執し、どうでもよいことに意地をはるのでしょう。

正当な理由を色々挙げるかもしれません。でも、その根は、自分を認めてもらいたい。もっと言うならば愛されたい。その一言に尽きるのではないでしょうか。

 

どうぞ

親となり、自分の心の内に生ずる感情に自分でも驚かされることがあります。

先日、美味しいケーキを家族で四等分し食べました。食べ始めると、子どもが先に食べ終え、私のお皿に残っているものを少し欲しそうに見ていました。

私は、分けてあげました。惜しいと全く思いませんでした。こんな心が自分の内にもあるのかと、自分に驚きました。妻と食べる時は、いつも大きい方を何の迷いもなく取る私なのですが…。

皆さんもそんな経験がおありなのではないでしょうか。子どもが良い点数を取ってきたから、運動ができたからではない。子どもの喜ぶ顔を見たいからというのでもない。理由を聞かれても説明がつかない。強いて言えば、子どもが自分の子どもであるからということでしょうか。

 

神が私たちを愛し

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子(イエス・キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。(Ⅰヨハネ4:10~11)」

神は、この世界を創造し、人をお造りになられました。しかし、人は、その造り主なる神に背き、神から離れ、心が罪に支配されています。神に感謝することなく、自己中心に生き、人を妬み、人を憎しみ、歩んでいます。 

神は、そうした私たちを腸がちぎれるほど悲しみ、慈しまれ、何とか罪から救い出そうと、独り子イエス・キリストを惜しみなくお送り下さいました。そして、私たちの罪の身代わりにイエス・キリストを十字架で裁かれ、私たちの罪を赦し、神に立ち返る道を開かれたのです。

私たちが神を愛したから神に愛されるのではなく、神がまず私たちを一方的に愛しておられるのです。神に造られた神の目にかけがえのない尊い存在だからです。

 

あなたを待っている

子どもは、親に深く愛され、自由に、安心して、生き生きと成長します。神は、弱く、もろいあるがままの私たちを愛し、愛しいと思われておられます。

神の全き愛の中に生きる時、私たちは、自らの存在の尊さを知り、自らの弱さを受け入れ、心が広く自由になり、人を赦し受け入れ、人に仕える歩みへと変えられていくことができるのです。

「あなたは、どこにいるのか。(創世記3:9)」神は、私たちがご自身に帰ってくることを、今、切に待っておられます。神の呼びかけに応じ、神の愛の中に生きましょう。

ダウンロード
チャペルタイムズNo39(2015年夏号).pdf
PDFファイル 207.8 KB