聖書メッセージ(マタイ28:11~20)『世に勝つ者』

『世に勝つ者』


聖書箇所 マタイ28:11~20

28:11 女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。

28:12 そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、

28:13 こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。』と言うのだ。

28:14 もし、このことが総督の耳にはいっても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」

28:15 そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。

28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。

28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。

28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」


説教要旨

墓の番をしていたローマ兵士たちは、地震、御使いの現れ、墓が空となっていた全てをユダヤの祭司長たちに報告し、ユダヤの祭司長と長老たちは協議し、ローマ兵士に多額の金を与え、夜、自分たちが眠っている間に弟子たちが来て主イエスの亡骸を盗んでいったことにするよう告げました。こうして、弟子たちが主イエスの亡骸を盗み、それをどこかに隠し、主イエスが復活したと宣べ伝えているとの話がユダヤ人の間に広がっていたのです。でも、そもそもローマ兵士が眠っていたならば、弟子たちが来たとは分からなかったはずです。しかし、それ以外、妙案が浮かばなかったのでしょう。一方、弟子たちは、ユダヤ当局が自分たちを捕えに来ると恐れ、エルサレムの一つの部屋に隠れていました。主イエスの復活を全く信じておらず、主イエスの亡骸を盗む理由はどこにもありませんでした。その恐れに満ちていた弟子たちが、後に、命の危険をおかしてもイエス・キリストを宣べ伝えたのは、弟子たちが復活された主イエスと出会い、主イエスのはかり知れない愛に触れ、主イエスの救いに生かされていたからでした。振り返りますときに、宗教指導者たちは、主イエスの復活をどこか恐れ、ローマ総督ピラトに番兵をつけ墓を守らせるよう依頼し、弟子たちが亡骸を盗む可能性をなくしました。しかし、その計画が崩れました。そして、今度、彼らは、再び人間の知恵を結集させ、番兵に金を渡し、主イエスの復活を否定しようとしました。しかし、それも崩されていくのです。罪の世は、主イエスを復活させた神の真実と力に決して打ち勝つことはできないのです。イエス・キリストは、全ての人間の策略、人間の否定、それらに打ち勝たれたのです。


さて、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行き、主イエスの指示された山に上り、主イエスにお会いし、礼拝しました。しかし「ある者は疑った(v17)」のです。(v8参照)喜びと恐れ、礼拝と疑りの中にいたのです。主イエスは、そんな弟子たちに、ご自分から近づかれます。(v18)私たちの信仰の歩みは、自分の信仰の立派さに支えられていくのではなく、ただただ主イエスの憐れみに支えられていくのです。そして、仰せられます。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。(v18)」「権威が与えられています(v18)」との言葉は、ある時点で、その権威(力)が付与されたとの意味合いの時制になっています。元々あったというのではなく、ある時点で授けられたことを表しています。主イエスは、元々神の御子すなわち神そのものであられ、万物の支配者であられました。ですから、ここで権威を授けられたのは、創造と摂理における権威のことよりも、罪人を全くお救い下さる権威のことが強調されているでしょう。(使徒2:32~36)主イエスは、父なる神の御旨にまったく従われ、十字架で死なれ、そして、父なる神は、その主イエスを復活させ、人間に罪の赦しと永遠のいのちを与えて下さる権威(力)を授けられたのです。主イエスは、女性たちに、弟子たちに「ガリラヤに先に行く。そこでわたしに会える(v10)」と伝えるよう仰せられましたが、ご自分を裏切った弟子たちを見捨てず、主イエスを礼拝しつつも疑った弟子たちに近寄り、罪の赦しと新しいいのちを与え、立たせられたのです。


どんなに罪の暗闇が深くても、世の光なるイエス・キリストが届かない暗闇はありません。どんなに人間的に策略が知恵深く、罪の世の力が強くても、神の真実、生ける救い主イエス・キリストの前には、打ち勝つことはできません。確かに罪の闇が深く映ることがあります。しかし、イエス・キリストは、闇の中で、輝いているのです。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(Ⅰヨハネ5:5)」日々、イエス・キリストに自らを明け渡し(ガラテヤ2:20)、神の祝福と勝利の内を歩み、主イエスの十字架と復活のお証に生かされていきましょう。