ねえ おまわりさん
おまわりさん
「僕は話しかける
僕の心をだれか変えてください
子どもの頃のような新鮮な心にと
おまわりさん
あなたは道を教えてくれるやさしい人ですね
心を取り変えてくれる病院は どこにありますか
え ないんですか そうですか ないんですか」
購入した古本に挟まれていた一枚のメモ書きです。
苦しみの中で
私たちは、日々の歩みの中で、喜びや感謝とともに苦しみや悲しみに覆われることがあります。
苦しみの中に置かれる時、「誰かがこうあってくれたら」「環境が変われば」
「なぜ自分が」などと強く思います。苦しみが深ければ深いほど、そのような思いは強くなるものかもしれません。そして、その場を離れてしまいたかったり、その重荷を背負いきれないと思ったりします。
しかし、現実がそれを許さず、私たちは、そこで本当に悩み、必死に一日一日を、今の現実の苦しみと明日への恐れを抱えつつ歩んでいるのではないでしょうか。
すべて、疲れた人
イエス・キリストは、仰せられました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(聖書)」
私たちは、今、ひとりでその重荷を負っているのかもしれません。ある人への怒りや憎しみをどうすることもできず、ひとりで悩んでいるのかもしれません。
誰かに話して、確かに少し楽になったかもしれませんが、でも、やはりその苦しみと向き合い背負っていくのは、私です。
しかし、イエス・キリストは、苦しみでどうすることもできず、悩み、悲しみ、疲れているそのままで、「わたしのところに来なさい」と、今、私たちを招かれています。遠くにおられるのではなく、私たちのすぐ隣におられます。
イエス・キリストは、過去の偉人ではありません。イエス・キリストは、生きることの苦しみ、そしてその根である罪から私たちを救うために、二千年前、この地に人として来られ、私たちのすべての罪を身代わりに背負い、十字架に架かり、死んで下さいました。そして、三日後に復活され、今も生きておられる救い主です。
魂に安らぎが、そして人生に神の恵みが
イエス・キリストは、私たちの弱さを蔑まれません。イエス・キリストのところにそのまま罪や重荷を抱えて行き、イエス・キリストとともに歩んでいくときに私たちの魂に安らぎがきます。
問題そのものはなくならないかもしれませんが、その苦しみや悲しみの中で、私たちを変わらずに愛して下さるイエス・キリストがともにおられ、安らぎを与え、苦しみの渦中では分からなかった、でも振り返る時に神の恵みに満ちていたと言うことができる人生へと私たちを導いて下さるのです。
魂の医者、イエス・キリストがおられます。