2016年夏号『二種類の水』

のどが渇いた!

「のどが渇いた!!」「麦茶が間に合わない。一日6ℓも作っているのに…」この時期、子どもたちと妻のそんな会話が繰り返されます。学校から持ち帰ってくる水筒は、毎日、すっからかんです。「節水」と聞くと、幼い頃、家の井戸水が枯れ、深く掘り直した光景が鮮明によみがえってきます。夏は、水の有難味をいつも以上に感じます。

 

また渇く

聖書には、二種類の水の話が記されています。イエス・キリストは、正午の時間に井戸に水を汲みに来たひとりの女性に語られました。

「この水を飲むものはだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。(ヨハネ福音書4:13、14)」

「この水」とは、この世が心に与えてくれる喜びや安心や力のことです。食べたり飲んだり、音楽や旅行、仕事の成功や人からの称賛…。確かにそこには楽しみや喜びや潤いがあります。でも、それらは「変わり易い外側からのもの」で「また渇くもの」ではないでしょうか。

実は、この女性は、五度結婚し別れ、この時ある男性と同棲していました。彼女は、自分の全てを受け入れてくれる男性の愛を求め続けてきたのです。しかし、彼女の存在の根源を満たす愛はありませんでした。彼女が暑い正午の時間に水を汲みに来たのは、そんな自分に後ろ指を指す人々の目を避けての事でした。

 

湧き出る喜び

哲学者パスカルは、「人の心には、神にしか埋めることができない空洞がある」と言いました。

私たちの空しさの根源は、私たちを創造された神に高ぶり、神から離れていることにあります。真実な絶対的な神の愛に背を向けているのです。それを聖書は「罪」と言い、そして、人は、善をしたいと思っているのに、したくない悪を行ってしまう罪の奴隷状態にあると告げています。

 

イエス・キリストは、その私たちを愛し、私たちのどうしようもない罪の身代わりに十字架に架かり死なれ、復活し、私たちの罪を赦し、神とともに歩む新しいいのちを与えて下さるのです。

この女性は、イエス・キリストと出会い、水がめを置き、避けていた人中へと出て行き、イエスについて語りました。自ら気づいていたか、いなかったか、内側から喜びが湧き出たのです。

 

だれでも

どこか空しさをおぼえてはいないでしょうか。それを見ないように、気づかないように、そして、その隙間や寂しさを必死に埋めようと色々なものを探し求めてはおられないでしょうか。 

状況に左右されず、私たちの根底を支える神とイエス・キリストの愛を受け取り、新しい歩みへと踏み出していきましょう。「だれでも」です。この私への招きであり、この私がそう生きられるのです。

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チャペルタイムズNo42(2016年夏号)
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