『私をあわれんでください』
聖書箇所 ルカ18:35~43
18:35 イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。
18:36 群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。
18:37 ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、
18:38 彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。
18:39 彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
18:40 イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。
18:41 彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。
18:42 イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、
18:43 彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。
説教要旨
この時、主イエスは、エリコを経由し、エルサレムに向かわれていました。そのエリコにおいて、ある目の見えない人が道端に座り、物乞いをしていました。時は、過越しの祭りの時期。人々は、旧約時代のエジプト脱出を覚える時であり、当時、イスラエルはローマ帝国に支配されていましたが、主イエスがローマ帝国から解放する政治的王との期待感で溢れていました。人々の興奮がいつもと違うと感じたのでしょう。目の見えない人は、一体何事かと尋ね、人々は、ナザレのイエスがお通りになると知らせると、彼は「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。(v38)」と叫びました。「ダビデの子のイエス(v38)」とは、旧約聖書に約束された救い主を指しました。すると、人々が彼を黙らせようとたしなめました。これは、当時、病や障がいは、罪の結果であると考え、彼への蔑みの故でした。ローマ帝国支配独立の政治的王として立ち上がっていく王イエスの手を煩わせたくないと考えたのでしょう。しかし、彼は、益々主イエスに憐れみを求めました。すると、主イエスは、立ち止まられ、彼を癒し、彼は、神を崇め、主イエスについて行き、これを見た民は、神を賛美しました。
これは、単に目が見えるようになったことを示しているのではありません。聖書は、全ての人間が神に対する心の目が閉ざされていると告げます。私たち一人ひとりは、神に創造された者ですが、その神に高ぶり、神から離れ、神との交わりを失っています。その結果、どこから来て、何のために生き、どこにいくのか分からないでいます。善をしたいと思うのに返ってしたくない悪を行ってしまう罪の奴隷状態にいます。しかし、私たちは、「見えない」とするのではなく、「見える」としています。(ヨハネ9:41)自分の罪の惨めさが見えない、自分の弱さが認められないのです。全く罪のない神の前に出されたならば、誰一人自分は目が見えるということはできないのです。
この目の見えない人は、イエスこそ救い主であると拠り頼み、癒されました。この癒しは、主イエスが十字架に架かられるためにエルサレムに向かう途上の出来事でした。主イエスは、神に高ぶり、神から離れ、罪の奴隷状態にある私たちを罪から救い出して下さるために、十字架に架かって死んで下さいました。人々は、この目の見えない人を蔑み、求めを止めさせようとしました。でも、主イエスの思いは、全くそんな所にありませんでした。神から失われた一人の人、神に対し心の目が閉ざされ、痛み、苦しんでいるこの目の見えない人、そして、この私を罪から救い、新しいいのちを与えるために、この地に来られ、仕えられ、十字架で命をお捨て下さったのです。(ルカ19:10参照)そして、この目の見えない人は、心の目が開かれ、神を崇める喜びの人生へと導かれていったのです。(ルカ2:20参照)また、それを見た民はみな神を賛美したのです。神の素晴らしさが回りに現われていったのです。目の見えない人は、物乞いをして生きていました。確かに、パンがなければ、私たちは、生きていくことはできません。でも、人は、パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつの言葉によります。神との交わりがなくては、決して満たされて歩むことはできません。そして、神との交わりは、たとい苦難の中にあっても、欠けの中にあっても、そして最大の敵、死さえも、なお勝利の内を歩ませて下さるものなのです。(ルカ2:20参照)
この神の救いをどのように受け取ることができるのでしょうか。自分が神に対し目が閉ざされている者であることを認め、その自分を愛し十字架に架かり死なれたイエス・キリストに拠りすがりましょう。周りの人は、私たちのことをダメだと言うかもしれません。自分も自分の人生をダメだとしているかもしれません。しかし、主イエスは、この私を愛しておられます。「私をあわれんでください。」そう主イエスを呼んでいただきたいのです。