なぜ私はいるの?
「なぜ私はいるの?」
妻と一緒にお風呂に入っていた小学一年の娘が、突然、妻にそんな哲学的な(?)質問をしているのを洗面所で耳にしました。
思わず「どきっ」とし、妻が何と答えるのかと、静かに耳をそばだてました。
「神様に生かされているからいるんだよ。」と答えていました。
説明のいらない真理?
先日、新聞で香山リカさん(精神科医)のコラムを読みました。ある講演で、相模原市の知的障碍者施設で多数の入所者が殺害された事件を取り上げ、「命は平等」と話すと、聴衆者から「私も命は平等だと思うが、簡単にそう言うだけではなく、もう少しちゃんと根拠を説明してください。」との質問が上がり、香山さんは「命は平等、というのにそれ以上の説明はいりますか。それを否定したら、人間が人間でいられなくなってしまう。そう言うしかありません。」とお答えになりました。質問者は、やや納得がいかないように首をかしげながら「わかりました」と言ったそうです。
その後、このコラムに対し、ある投稿がなされ、最大限の努力で抽象概念を言語化できるよう「答えのない答えを求めていきたい」との誠実な言葉が記されていました。
大変考えさせられるコラムであり、投稿でした。
神の目には
何故命は平等であり、何故命は大切なのでしょうか?
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(聖書)」
創造者なる神が、この私を私として、あなたをあなたとしてお造りになられ、神の目に高価で尊い存在で、神に愛されている命であるからではないでしょうか。
単純過ぎる答えのように思えるかもしれません。でも、この素朴な信頼こそ、人間の原点、土台であると思えてなりません。そこに自らが立っていく、また、日々の現実の人との関係の中で確かに葛藤があり闘いがあり失敗があるのですが、そこに絶えず立ち返って人を見つめていくのです。
生かされて生きる
神は、私たち一人ひとりに「あなたは、どこにいるのか。」と声をかけ、捜しておられます。そして、独り子イエス・キリストを十字架に架け、私たちの罪を赦し、神に立ち返らせ、神とともに歩む祝福された生涯へと導いて下さるのです。
「神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる(聖書)」
神に生かされて生きる、その土台に立ち、「考える葦(パスカル)」として、思索し歩んでいきたいと願います。