聖書メッセージ(ヨハネ14:1~3、16:33)『わたしの父の家には』

聖書箇所 ヨハネ14:1~3、16:33

14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

 

説教要旨

本日は、召天者記念礼拝です。この御言葉は、イエス・キリストが十字架に架かられる前夜に、弟子たちに語られた言葉です。この時、弟子たちは、恐れ、心を騒がしていました。主イエスが自分たちから去っていくと教えられていたからです。それだけではなく、これまで自分たちを守り導いて下さった主イエスがおられない世に、弟子として生きる恐れもあったのでしょう。主イエスは、そんな彼らに仰せられました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(14:1)」続いて、ご自分が弟子たちから去っていくことは、天の御国の住まいを用意するためであると告げました。(14:2、3)これは、弟子たちに「永遠のいのち」を与える約束でした。「永遠のいのち」とは、地上での生涯を終え、神のみもとに行き、神との交わりに入れられることであり、また、今神との交わりに生きることです。(17:3)主イエスは、肉体の死は、私たちの終わりではない、存在が消え失せるのではない、主イエスにあって「天の御国」「神とともなる場所」へ導かれると仰せられました。また、主イエスは、この日々の歩みにおいて、神がともにおられ、私たちが神とともに歩んでいくことができると仰せられました。神は、この世界を創造され、私たち一人ひとりを造られ、生かしておられますが、私たちは、神に背を向け、神との交わりを失い歩んでおります。自分は、自分の力で生きていくことができると思っておりますが、それこそ聖書が言う「罪」です。そして、私たちは、思いと言葉と行為において、神を悲しませ、人を悲しませ、罪の内に失われています。神は、聖なる方であられ、罪を忌み嫌われ、お裁きになられます。人は、誰ひとり神の前に、自らの罪の故に立ち得ない者です。しかし、その聖なる神は、真に慈しみ深いお方であり、私たちを愛し、御子イエス・キリストを私たちに与え、御子イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりに十字架で苦しまれ死なれ、しかし、その死に打ち勝ち復活され、天に昇られ、救いの御業を成し遂げ、救いの道をご用意下さいました。主イエスを信じる者に罪の赦しを与え、神との交わりを回復させ、今神とともに生き、やがて神の住まう天の御国にお入れ下さるのです。「…あなたがたは、世にあっては患難があります。(16:33)」私たちの地上での日々の歩みには、艱難があります。様々な試練、肉体的痛み、家族の悲しみ、事故、信仰故の迫害…。また、私たちの歩みは、絶えず自らの罪の力との闘いがあります。妬みや人を赦せない、そんな中で苦しむのです。うめきの歩みです。でも、主イエスは、仰せられます。「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(16:33)」イエス・キリストは十字架で死なれましたが、罪と死に打ち勝たれ、復活されたのです。人の慰めの言葉が全く届かない苦しみ、悲しみ、孤独、罪の嘆きがあります。でも、その私たちの隣には、十字架で苦しみ忍ばれ、しかし、それに打ち勝たれたイエス・キリストがともにおられるのです。自分の力に拠り頼んでいくのではなく、その主イエス・キリストに信頼して歩んでいくとき、罪の力に打ち勝ち、神様の祝福と勝利の内を歩み、天の御国へと迎え入れられていくのです。

 

私たちは、天に召された故人を偲びつつ、自らの命が神に与えられ、生かされている者であることを覚えさせていただきましょう。その神に背を向けて歩むことこそ罪であることを認め、イエス・キリストの十字架の赦しを受け取り、神に立ち返り、永遠のいのちをいただき、故人との天の御国での再会を待ち望みましょう。この世にあっては苦難がありますが、その只中に私たちの悲しみを知り、十字架で死なれ復活されたイエス・キリストに信頼し、神が下さる勝利と祝福の内に歩んで参りましょう。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(Ⅰヨハネ5:4、5)」