聖書箇所 Ⅱテサロニケ3:13~15
3:13 しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。兄弟たちよ。
3:14 もし、この手紙に書いた私たちの指示に従わない者があれば、そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい。彼が恥じ入るようになるためです。
3:15 しかし、その人を敵とはみなさず、兄弟として戒めなさい。
説教要旨
昨週は、テサロニケ教会の中で、イエス・キリストが直ぐに来られるとし、兄弟愛を逆手にとって怠惰な歩みをしている者たちを戒めた箇所を見ましたが、今日は、そのような怠惰な歩みをしている者とともに生きるテサロニケ教会の人々への教えを見ていきます。「しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。兄弟たちよ。(v13)」「善を行なう」とは、前節との関係で考えるならば、「静かに仕事をなす」「自分の務めを誠実になす」ということでしょう。神から委ねられた務めを忠実になしていくことでしょう。しかも「たゆむことなく(v13)」です。自らのみが犠牲を払っているように感じたこともあったでしょう。同じことの繰り返しの日々だったでしょう。結果が見えないこともあったでしょう。「兄弟たちよ(v13)」と呼びかけています。そこには「神がちゃんとあなたがたをご存知でいて下さる。あなたがたの労は決して無駄にならない。」そんな思いが込められていたでしょう。また「善を行なう」とは、続く箇所から見ていく時に、怠惰な者たちに対する愛の歩みをも意味していたでしょう。愛に生きることを止めてしまうのではなく、忍耐強く愛をもって仕えていくのです。
続いて怠惰な者に対し、教会の中でどのように接していくのかを具体的に記しました。パウロは、テサロニケの地でいる時にも第一の手紙においても怠惰を戒めました。それでも怠惰な者たちは、改めなかったので、この第二の手紙を記しました。しかし、この手紙によってもなお従わない人には、「特に注意を払い、交際しないようにしなさい。(v14)」と命じました。「交際しない」というのは、「教会の交わりから退ける」ということでした。それは、教会の戒規を指しているでしょう。このように厳しい処置をするには、目的があります。「彼が恥じ入るようになるためです。(v14)」「恥じ入る(v14)」という言葉は、進行方向を変えるとも訳されます。厳しい処置をするのは、彼が自分の罪を認め、悔い改めるためです。どこまでも、彼への愛からの戒めでした。ですから続けます。「しかし、その人を敵とはみなさず、兄弟として戒めなさい。(v15)」背後で祈りつつ、悔い改めを待ちつつ、戒めるように教えたのです。愛とは、無分別の赦しではありません。相手の要求をうのみにすることではありません。厳しさを伴ったものです。また、愛とは、単に非難し、批判することではありません。愛することに苦しみ、仕え続け、祈り続け、待ち続けることです。
まさに、神の愛は、そのような愛であり、キリストの忍耐は、そのような忍耐です。神は、私たちの罪や道徳的悪に対し無分別に赦されるのではありません。神は、真に聖いお方、義なるお方で在られ、罪を正しく怒られ、裁かれます。しかし、神は、私たちを愛し、愛に苦しみ、神の独り子イエス・キリストをお遣わしになられ、イエス・キリストを十字架で身代わりに裁かれ、全く見捨てられ、贖いの御業を成し遂げ、救いの道をご用意下さいました。神は、自分の罪を認め、イエス・キリストを信じ受け入れる者を全く赦し、全く受け入れ、神の子どもとして下さるのです。これが神の愛です。聖なる愛です。そして、イエス・キリストは、神の独り子で在られましたが低く人となられ、十字架に架けられ、十字架で自分を十字架につけた者のために赦しを祈られ、自分を救うことをせず、苦しみを忍び通されました。「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。(v5)」神は、イエス・キリストは、私たちのこの愛の闘いの心を導き、神の愛とキリストの忍耐を持たせて下さるのです。魂の奥底を徐々に徐々に造り変えて下さるのです。
この朝、その神をほめたたえ、感謝したいと願います。そして、愛の闘いを覚えているからこそ、いよいよ神に拠り頼み、神の愛とイエス・キリストの忍耐をいただいて、もう一度ここから新たに、たゆむことなく善をなしていく、愛をもって仕えていく歩みを始めさせていただきましょう。