聖書箇所 Ⅱテサロニケ3:16~18
3:16 どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。
3:17 パウロが自分の手であいさつを書きます。これは私のどの手紙にもあるしるしです。これが私の手紙の書き方です。
3:18 どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。
説教要旨
礼拝式においてⅡテサロニケ書を見てきましたが、今日は最後の箇所で、パウロの祈りの言葉となっております。「どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。(v16)」教会内に、直ぐに主イエスが再び来られるとし、仕事をせず、怠惰な者たちがいました。そして、そのような者とともに生きている人々がいました。テサロニケ教会の人々は、愛の闘いを覚えていたことでしょう。異なる者が互いに愛し合う闘いでした。人間が神に高ぶり、神との関係が壊れて以来、人間の歴史は、異なる者が互いに愛し合えない歩みとなりました。私たちも愛の闘いを覚えているでしょう。人と人とが共に生きることの難しさを覚えます。パウロは、異なる者が互いに愛することの難しさ、いいえ、愛は、根源的には人間の内にはないこと、また罪に対する人間の無力さを深く覚えていました。ですから、平和の主イエス・キリストご自身が、平和を与えて下さるように祈ったのです。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりに十字架で神の裁きを受けられ、私たちの罪を赦し、そればかりか神とのいのちの交わりを与え、罪に打ち勝つ力を与えて下さるお方です。ご聖霊を内に住まわせ、造り変えて下さるのです。罪の支配から解放し、イエス・キリストのいのちの支配に移して下さるのです。
ですから、パウロは、祈りを続けます。「どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。(v16)」イエス・キリストは、ご自身を信じたその時から私たちとともにおられます。ですから、この祈りは、いよいよ主イエスがともにいて下さるようにとの祈りだったでしょう。また、どんなばあいにも、いつもともにいて下さる主イエスを見失うことがないようにとの祈りだったでしょう。イエス・キリストがともにおられるところに赦しが、愛が、平和が与えられていくのです。内側から新しく造り変えられていくのです。パウロは、ここで「主があなたがたすべてと(v16)」と祈っております。v18もそうです。怠惰な者たちに対しても、主がともにおられること、主の恵みがあることを祈ったのです。前節で敵とみなさず、兄弟として戒めるよう教えていましたが(v15)、まさにパウロ自身がそれを実践しておりました。しかし、パウロは、元々はパリサイ人でした。(ピリピ3:5)パリサイ人とは、人々を見下し、自分はそのような者とは異なると自分を誇っていた者でした。しかし、そのパウロが、イエス・キリストと出会い、イエス・キリストに結ばれ、兄弟を愛する者へと変えられたのです。平和の主イエスがともにおられるところに赦しが、愛が、忍耐が与えられていくのです。
パウロは、最後に「恵み」を祈りました。「どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。(v18)」「恵み」とは、値しない者に注がれる主の御愛です。神に背を向け、罪の内を歩み、永遠の滅びに向かっていた私たちを、主イエスは一方的に愛し、十字架に架かり、お救い下さいました。主の恵みによって救われました。そして、主の恵みによって信仰の歩みが支えられています。私たちの弱さや罪を越えて、そして闘いの中で、主は恵みをもって私たちを導き支えて下さっておられます。そして、主の恵みは、平和の源でもあります。パウロの手紙のすべてが「恵み」と「平安」の順序です。主イエス・キリストの恵みによって平安(平和)が与えられるのです。パウロは、救いの源、信仰の歩みの源、平和の源、すなわち神の祝福の源であるイエス・キリストの恵みを祈りました。一人ひとりの顔を思い浮かべ、迫害と苦難を思い、怠惰の弱さと愛の労苦を覚え、「主イエス・キリストの恵みが(v18)」と祈りを込め、この手紙を書き終えたのです。そう祈らざるを得なかったのです。そして、その背後には、イエス・キリストご自身の愛を見るのです。
主イエス・キリストの恵みに満たされ、堅く「信仰」に立ち、「愛」に生き、御国の「希望」を抱き、神のご栄光を現わして参りましょう。