- ある牧師の苦闘
「神が分からなくなった…。」大先輩の牧師からお話しを聞きました。
その牧師のご子息は、優秀な方で、米国で仕事をなし、牧師もそれを喜び、感謝して歩んでおられました。しかし、ある時、ご子息は、突然、交通事故に遭い、命は取り留めたものの、生涯車椅子の生活を余儀なくされることとなりました。
牧師は、ご子息の試練を何とか受け止めようとされましたが、次第に神の計画が、そして神ご自身が分からなくなり、神の愛を語ることができず、教会の働きを離れました。
神の前に祈ることもできず、ただただうなだれる中で、ある時、イエス・キリストの「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」との言葉が心に響いてきたのです。
「神よ、何故、こんな不条理を許されるのですか」との思いに満ちていた中で、「私の不条理の出来事の前に、イエス・キリストは、すでにその苦しみを受けられていた。」との思いが芽生え始め、そこから少しずつ少しずつ魂の回復へと向かわれたとのことです。
- 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てに…」
このイエス・キリストの言葉は、イエス・キリストが十字架にかけられた時の叫びです。
神のひとり子イエス・キリストは、神のご栄光をかなぐり捨てて人としてこの地に来て下さいました。何一つ罪を犯すことなく、愛に生き続けましたが、その最後は、十字架の死でした。人々に蔑まれ、神もイエス・キリストをお救いになりませんでした。
辱めと不条理の極みを通られました。しかし、これこそ神の救いのご計画でした。イエス・キリストは、私たちを愛し、私たちの罪の身代わりに十字架で神に裁かれ捨てられ、死の中から復活され、私たちを神とともに新しく生きる者として下さるのです。
- イエス・キリストはその道をすでに
J.I.パッカーという神学者は、「キリストは、私たちを導かれるのに、ご自分が以前通り過ぎられたところより暗いところを通されることはない。」と述べました。私たちは苦しみの中で何故と問い、嘆きますが、苦しみの理由は容易には出ず、悲しみを負って歩んでおります。
でも、神の愛など全く信じ難いときに、その道をすでにお通りになられたイエス・キリストがともにおられるのです。そして、一筋の希望の光が悲しみの中に差し込んで来るのです。旧約聖書の詩人ダビデは、歌いました。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」
この秋、日本キリスト教史の専門で、千葉県市川市で牧師をされておられる山口陽一師を迎え、特別集会を行います。全体のテーマは、「愛し、語り、「黙される」神」で、10/14(土)は、遠藤周作の小説を映画化した「沈黙」について考え、10/15(日)は、キリストの十字架の叫びから神の愛をお語り下さいます。どうぞ足をお運び下さい。お待ちしております。