聖書箇所 エペソ1:22~23
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
説教要旨
本日は、「教会」についての告白を見て参ります。「教会を信ず」との告白は、「聖霊を信ず」の告白の中で位置づけられています。聖霊なる神の御業として、教会を受け止め、信じるのです。教会とは、建物を指しているのではありません。「では、中身だ。イエス様を信じる者の集まりだ。」その通りですが、私たちの意志を根拠として集まった集まりが教会ではありません。教会とは、「エクレシア」という言葉で、「呼び出された者たちの集まり」との意味です。教会は、聖霊なる神が呼び集めて下さった群れです。創造者なる神の壮大なご計画の中で呼び集められたのです。(エペソ1:3~5)また「教会を信ず」の告白が個人の「罪の赦し」「からだのよみがり」「永遠のいのち」の告白よりも先に来ております。聖霊は、教会を造られ、教会の交わりの中で、私たち一人ひとりを新しく生まれさせ、お育み下さるのです。教会と私たち一人ひとりは、不離一体の関係です。
「聖なる公同の教会」と告白します。「聖なる」とは、道徳的な聖さを指しているのではなく、「区別された」「取り分けられた」との意味です。神により、この世から取り分けられた共同体であることを指します。それは何か優れた点があったとか、私たちの側に根拠があるのではなく、神ご自身が一方的な恵みにより、御心のままに、この世から神のものと取り分けて下さったのです。続いて、「公同の」とは「普遍的な」との意味です。一つの普遍的な教会ということです。「目に見えない教会」との表現がしばしばなされます。時代を越え、国や民族を越え、神のものとされている教会です。そして、地域教会は、見えない教会の現われです。守谷聖書教会は、一つの普遍的な教会が、目に見える形でこの時代に、この守谷の地に現われているものなのです。
その教会で何が行われるのかということが続いての告白です。「聖徒の交わりを信ず」と告白します。イエス・キリストは教会のかしらであり、教会はイエス・キリストのからだです。(1:22~23)「聖徒の交わり」の第一の意味は、教会のかしらである主イエス・キリストとの交わりを表しております。(Ⅰヨハネ1:3)主イエス・キリストとの交わりをなすところが教会です。そして主日礼拝が何よりもそのことの中心です。私たちは、それぞれの場から神に呼び集められ、共に神の御前に出ます。そして、神の御言葉と聖餐の恵みにより、イエス・キリストを仰ぎ見、神の祝福に与ります。そして、神の恵みに応答し、賛美や祈りや献金を通し、主イエス・キリストを称え、感謝を捧げ、自らを主にお捧げしていきます。第二の意味は、主イエス・キリストを中心とした互いの交わりを表しております。(2:20~22、4:16、4:25)私たちは、組み合わされ、ともに建てられていくのです。主イエス・キリストを中心として互いに交わり、励まし合い、赦し合い、愛の内に教会と私たち一人ひとりが建て上げられていくのです。教会はキリストのからだであり、私たち一人ひとりはなくてはならない大切な器官であるのです。主にある交わりは、教会の本質的なことです。パウロはそのことをエペソ書の2章~4章で記し、5章からは、この世にある歩みについての教えがなされていきます。主日毎に、主と主にある互いの交わりに与り、私たちは、家庭(夫婦、親子の関係)や職場に主に遣わされ(5章)、信仰の武具を身につけて世の闘いの中に出ていくのです。(6章)こうして、教会と私たち一人ひとりが建て上げられていく時に、神ご自身が救われる人をお加え下さるのです。(使徒2:47)
聖餐の恵みに与ります。一つパンを食し、イエス・キリストと主にある互いの交わりに生かされている神の民であることを覚え、今年の年間聖句は、「霊の家に築き上げられる」ですが、主イエス・キリストと主にある互いの交わりにますます生かされ、主が住まう宮と育まれ、それぞれの持ち場にここから遣わされて参りましょう。