聖書箇所 ヨハネ1:9~13
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
説教要旨
人の光であられるイエス・キリストは、二千年前、世に来られました。(v9)天地の創造以前において、すでに御子イエス・キリストはおられ、世界と私たちは、イエス・キリストによって造られ、このお方によらずにできたものは一つもありません。(v10)そのイエス・キリストが、この世に来られたのです。にも関わらず、「世はこの方を知らなかった(v10)」のです。「ご自分の民は受け入れなかった(v11)」のです。キリストは、家畜小屋で誕生されました。歓迎する者がいなかったためです。(ルカ2:7)これはイエス・キリストの後の歩みを象徴していました。キリストは、当時の宗教指導者から妬まれ、十字架につけられました。でも、それが父なる神の救いのご計画であり、御子イエス・キリストは、自ら父なる神に従い、十字架に架かり死んで下さったのです。(ヨハネ12:23~24、19:17、19:30)神の独り子、いのちであるイエス・キリストは、十字架でご自分のいのちを捨て、私たちが神に立ち返り、いのちを得るために、この地に来て下さったのです。多くの人々がイエス・キリストを拒んだ中で、「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(v12)」神の子どもとされるとは、どういうことでしょうか。
第一に神に背を向けていた私たちが、罪赦され、神との交わりである永遠のいのちが与えられ、神を「天の父」と呼ぶ者とせられることです。天の父なる神は、私たちの日々を守り、祝福をもって導いて下さいます。困難や試練がないわけではありません。でも、天の父なる神は、私たちを見、私たちの祈りを聴き、私たちの歩みを全体的に祝福と守りの中で導いて下さいます。霊的な祝福、また、物的な守りの中を歩ませて下さるのです。
第二に神の子どもとされるとは、父なる神の御心に従って生きる者とされるということです。神の栄光を現わすという目的の中で生きていくことができるのです。偶然、この所に生きているのではなく、神に遣わされて生きていくのです。その歩みは、自分が楽で、自分が富む歩みではないでしょう。(21:18、19参照)ちょうど蝋燭が自らを削って回りを優しく照らすように、自分にとって行きたくないところ、願っていないような状況であるかもしれませんが、そこに身を置き、古い自分を捨て、父なる神の御旨に従い、世の光として神に栄光を帰していく歩みです。では、その歩みは、犠牲があるのみで、全く喜びがないのでしょうか。いいえ。そうではありません。自分の願いや思いをひたすらに求めて生きていた時よりも遥かにまさる真の喜び、真の祝福の歩みが与えられていくのです。(14:27)「病まなければ ささげ得ない祈りがある …病まなければ 聴き得ない御言葉がある …おお 病まなければ 私は人間でさえもあり得なかった(河野進牧師)」神とイエス・キリストを知る真の喜び、真の祝福の歩みであるのです。(17:3)そして、その道は決して一人の歩みではなく、先に十字架を負われたイエス・キリストがともにいて下さり、助け主なる聖霊が私たちの傍らにいて助けて下さる歩みであるのです。
では、私たちは、どのように、神の子どもとせられるのでしょうか。イエス・キリストを信じるのです。(v12)そして、神の子どもとせられるのは一方的な神の恵みによります。(v13)人間の側による誕生ではなく、ただ神の一方的な恵みの働きによります。イエス・キリストを信じる背後には、神の一方的な恵みによる働きがあるのです。神は、心の戸をノックされています。その神の恵みによる働きを軽く考えないようにしたいと願います。今は恵みの時、今は救いの日です。(Ⅱコリント6:2)イエス・キリストを信じ、神の子どもとせられていきましょう。また、神の大いなる働きによって神の子どもとされることの故に、キリスト者は、神の愛と守りを暗闇の世において堅く信頼し続けたいと願います。そして、古き自分を日々捨て、神の祝福をもたらす歩みをなさせていただきましょう。