「真っ赤な顔」と「涙」
三十年経ても忘れ得ない父の「顔」があります。私が中学生の頃のことです。
父は、穏やかで寡黙な人で、転倒事故で頭を打った後遺症からか目に少し不自由を抱えています。そんな父の楽しみは、工場での仕事から帰宅し、夕食前、テレビの前で、果物を食べることでした。
ある夏、仕事を終え、帰宅し、いつものようにプロ野球観戦をしながら、ぶどうを食べていました。靴下を脱ぎ、肌着になって、ほっとしていました。私は、「足臭さ!」と言いました。その瞬間、父はこちらをギラっと見て、顔を真っ赤にして、ろれつが回らないほど怒り出しました。
私は、焦り、でも素直に謝る気持ちになれず、怒る父の顔をにらむように見ると、目にはうっすら涙が浮かんでいました。その時、父がどれほどの犠牲を払って働いてくれていたのかが、ずしりと心に響いたのでした。
親の心、子知らず
結婚し、自分が親になって初めて親の犠牲が分かってくることがあるように思います。
十一年前、息子が生まれた頃、教会の壮年の方から「自分ひとりで育ってきたように思っていたでしょ。」と声をかけられ、全くその通りだと思いました。おむつを替えてくれたのも、ご飯を食べさせてくれたのも、お風呂に入れてくれたのも、すべて親でした。
でも、その記憶は一つも残っていないのです。
神の心、人知らず
聖書は、神が私たち一人ひとりを創造し、生かしておられると告げます。神は、私たちに太陽を上らせ、雨を降らせ、様々な恵みを与えて下さっておられるのです。しかし、私たちは、神に背き、神から離れ、自分を中心として生きています。聖書は、それを「罪」と言います。
そして、罪の結果、生きる目的が分からず、虚しさがあります。人中で絶えず孤独で、愛に渇いています。人を妬んだり、憎んだり、恐れたり、そんな歩みをしたくないと思いながらそうしてしまう、心が不自由な中にいます。
わたしの心は
「わたしはどうしてあなたを見捨てることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。(聖書)」
神は、私たちを愛し、罪から救おうと、神の御子イエス・キリストを十字架に架け、ご自身に立ち返る道をご用意下さいました。神に立ち返り、神の力に支えられ生きること、それが本来の人の姿であり、そこに真の平安が与えられていくのです。
神は、あなたを愛しておられます。神の愛の中で生きる一歩を始めていきましょう。
守谷聖書教会
牧師 鈴木洋宣