どうして洗礼を?
「どうして洗礼を受けたのですか?親がクリスチャンだったからですか?」良く聞かれる質問です。
確かに両親がクリスチャンで、幼い時から教会に行っていたことは、大きなことだったと思います。でも、それだけではないとの声が心の中から響きます。
洗礼を受けたのは、18歳、高校三年生の時でした。とにかく運動が好きで、中学、高校と部活に没頭しました。当然、日曜日も部活があり、次第に教会から離れていきました。
心の穴
中高生時代、表面上は楽しく過ごしていても、心はぽっかりと穴が空いていることを感じ始めました。友達と電車の中で肩を並べ語り合っていても、友達に合わせ悪さをしても、心の一番奥のところで寂しさがありました。
何とかそれを満たそうと通い詰めたのは、邦楽や洋楽が多数置いてあったCDショップでした。時間の許す限り店にいて、ヘッドフォンでCDを視聴し、「これだ!」と思ったものを小遣いを貯めて購入し、家で聴き続けました。
心が満ち、癒されました。でも、もった期間は長くて二週間。再び他の音楽を求め、店に通う連続でした。
虚しさの源
どのようなきっかけであったか憶えていませんが、親に送られてきていた聖書のメッセージが入っていたカセットテープをひとりで聴くようになりました。
「愚か者は心の中で『神はいない』と言っている」の聖書の言葉から、「自らの造り主なる神に背を向けて生きていること、それが聖書の言う『罪』であり、虚しさの源であり、神の御子イエス・キリストは私たちを愛し、十字架で死なれ、罪を赦し、神に立ち返る救いの道をご用意下さった」とのメッセージでした。
自分のことを言われているようで、そこから求道が始まり、洗礼へと導かれたのです。
神にしか
「人間の心にはどんなものも埋めることのできない大きな空洞がある。それを埋めることができるのは神だけだ。(パスカル)」「あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちにいこうまでは、安らぎを得ることができないのです。(アウグスティヌス)」洗礼を受けた後、読んだ本の中で出会った言葉です。
イエス・キリストを信じ、半年程経った時、ふと気づきました。「最近CDショップに行っていない」と。
洗礼を受け、神とともに歩み、25年になろうとしています。本当に幸いだと感じております。とは言え、今も人中で渇きを覚え、否定的な思いに満ちることがあります。でも、神の前に出る時、不思議と平安が取り戻され、内から新たな力が湧いてくるのです。
この秋、東京基督教大学の大和昌平先生をお迎えし、特別集会を行います。「般若心経の空と聖書の空」「私の生きた証はどこに?-聖書の人生論-」二回の講演に是非足をお運びください。
守谷聖書教会
牧師 鈴木洋宣