聖書メッセージ『いつものように琴を手に』(Ⅰサムエル記18:6~19)

聖書箇所 Ⅰサムエル記18:6~19
18:6 ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちはイスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えた。
18:7 女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」
18:8 サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」
18:9 その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。
18:10 その翌日、神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。
18:11 サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。しかしダビデは二度も身をかわした。
18:12 サウルはダビデを恐れた。主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。
18:13 それでサウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長にした。ダビデは民の先に立って行動していた。
18:14 ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼とともにおられた。
18:15 ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。
18:16 イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動していたからである。
18:17 あるとき、サウルはダビデに言った。「これは、私の上の娘メラブだ。これをあなたの妻として与えよう。ただ、私のために勇敢にふるまい、主の戦いを戦ってくれ。」サウルは、自分の手を下さないで、ペリシテ人の手を彼に下そう、と思ったのである。
18:18 ダビデはサウルに言った。「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるなどとは。」
18:19 ところが、サウルの娘メラブをダビデに与える、という時になって、彼女はメホラ人のアデリエルに妻として与えられた。

 

説教要旨
ダビデがペリシテ人の巨人ゴリヤテを倒した後、サウル王の息子ヨナタンの心がダビデと結ばれ(v1)、契約を結び(v4)、良き友となりました。サウル王もダビデを召し抱え、戦士たちの長としました。(v5)しかし、サウル王は、女性たちの「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った(v7)」との言葉を聴き一変し、ダビデを疑いの目で見るようになりました。翌日には、心を治められず、ダビデに二度槍を投げつけました。(v11)そのような爆発する形だけでなく、綿密な計画も立てました。ダビデを自分のもとから離し、千人隊の長とし(v13)、敵の手でダビデを殺そうとしたのか、又は、若くして重責を担わせ、失敗をさせ、人気を落とそうとしたようです。また、娘メラブを妻として与えるとし、戦いに出させ、ペリシテ人の手で殺そうとし、最終的にはメラブを与えませんでした。(v17~v19)さらに、他の娘ミカルがダビデを愛している思いを利用し、ペリシテ人を打つことを願っていることを家来を通し遠回しに告げ、ペリシテ人の手で倒そうとしました。(v20~v27)サウル王は、「ダビデを恐れた(v12、v15、v29)」のです。

 

サウル王の激しい怒りや策略にも関わらず、「ダビデはその行く所、どこででも勝利を収め(v14)」ました。ダビデは、サウル王から投げつけられた槍を二度かわすことができました。(v11)サウル王のもとから離された所で、高ぶらず、民の先に立って行動し、自分の務めを果たしました。(v13)サウル王が約束を破り、メラブを妻として与えられなかった時、言葉を慎み、じっと耐えたようです。(v19)さらに、ダビデは、仕返しをしなかったばかりか、ミカルを妻として得るために、王の命令は、「ペリシテ人の陽の皮百だけを望んでいる(v25)」でしたが、二百人の陽の皮を持ち帰ったのでした。(v27)主イエスのなされた「一ミリオン行け」と強いる者には「二ミリオン行きなさい」と、単に仕返しをしない消極的な生き方ではなく、敵する者に積極的に与えていく生き方の教えと重なります。(マタイ5:41)「サウルはいつまでもダビデの敵となった(v29)」サウル王の攻撃は、十数年でした。でも、ダビデは、耐え忍び続けたのです。素晴らしきダビデです。

 

しかし、聖書は、その理由をダビデに帰せず、神がダビデとともにおられたからと告げます。(v12、v14、v28)主がダビデとともにおられ、命を守り、力と忍耐を与えて下さったのです。キリストは、私たちを愛し、私たちの罪の身代わりに十字架で死なれ、罪から救い出し、守り、力づけて下さいます。主イエスは、私たちと同じように試みに会われた方です。ダビデの如く、宗教指導者に妬まれ、綿密な計画により十字架に架けられました。しかし、十字架上で罵られても罵り返さず、自分を十字架に架けた者のために赦しを祈られました。キリストは十字架で死なれましたが、罪と死に打ち勝ち復活され、私たちとともにおられるのです。

 

「ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいた(v10)」いつまでも続く苦しみの中で、ダビデは、いつも心が神に向けられていたのです。一方、サウルは「ダビデを恐れた(v12、v15、v29)」と、ダビデに心が向けられていたのです。主がダビデとともにおられることを見、知ったのですが(v28)、神に立ち返ることをせず、主から離れ、より一層ダビデを恐れました。ダビデは歌いました。「私はいつも、私の前に主を置いた。…(詩篇16:8~11)」それは、単に主イエスを模範として私が生きていくというよりも、キリストと交わり、キリストの愛と力によって立ち上がらせていただく歩みです。助け主なる聖霊に拠り頼み、私たちの感情や意志に働いていただき、助けていただく歩みです。私たちは、サウル王のように、人を恐れる者です。一方、ダビデのように、長年の苦しみの中で守りと忍耐と力を必要とする者です。「いつものように琴を手に」私たちとともにいて下さるイエス・キリストを、いつも自分の前に置き、キリストと交わり、心が主に満たされ、神の祝福と勝利の内を歩み続けていきましょう。