聖書箇所 Ⅱサムエル記24:10~19(24章)
24:10 ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」
24:11 朝ダビデが起きると、次のような主のことばがダビデの先見者である預言者ガドにあった。
24:12 「行って、ダビデに告げよ。『主はこう仰せられる。わたしがあなたに負わせる三つのことがある。そのうち一つを選べ。わたしはあなたのためにそれをしよう。』」
24:13 ガドはダビデのもとに行き、彼に告げて言った。「七年間のききんが、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたは仇の前を逃げ、仇があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に、何と答えたらよいかを決めてください。」
24:14 ダビデはガドに言った。「それは私には非常につらいことです。主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。人の手には陥りたくありません。」
24:15 すると、主は、その朝から、定められた時まで、イスラエルに疫病を下されたので、ダンからベエル・シェバに至るまで、民のうち七万人が死んだ。
24:16 御使いが、エルサレムに手を伸べて、これを滅ぼそうとしたとき、主はわざわいを下すことを思い直し、民を滅ぼしている御使いに仰せられた。「もう十分だ。あなたの手を引け。」主の使いは、エブス人アラウナの打ち場のかたわらにいた。
24:17 ダビデは、民を打っている御使いを見たとき、主に言った。「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」
24:18 その日、ガドはダビデのところに来て、彼に言った。「エブス人アラウナの打ち場に上って行って、主のために祭壇を築きなさい。」
24:19 そこでダビデは、ガドのことばのとおりに、主が命じられたとおりに、上って行った。
説教要旨
Ⅱサムエル記は、歴史的順序としては20章までで、21章からは付記です。本日は、Ⅱサムエル記の最後の箇所です。ダビデは人口調査を行いました。v1には主がダビデを動かし人口を数えるよう命じ、一方歴代誌21:1ではサタンがダビデを誘ったと記されています。この二つから、神はダビデに対するサタンの誘いを許容されたと言えるでしょう。ダビデは調査を軍団長ヨアブに命じましたが、ヨアブは国が強くなるのは兵力の多寡によらず、神の祝福によるものであり、王は何故調査を望まれるのかと問い(v3)、諫めました。人口調査そのものが問題なのではなく、根底にある民の数を国の拠り所とし、神への信頼を失っていたことが問題でした。ダビデはヨアブを説き伏せ、ヨアブは調査を実施し、イスラエルには兵士80万人、ユダには50万人であると報告しました。(v5~v9)
民を数えて後、ダビデは自ら良心の咎めを覚えました。(v10)預言者ガドが来る前です。「とがめを感じた」との言葉は、「打つ、打たれる」の意味です。ヨアブに諫められた時には気づかなかった、でも、ここでは心打たれ、気づかせられ、神の前に罪を告白しました。ダビデの魂が打ち砕かれた様が示されています。ダビデは、翌朝ガドを通し、神の言葉として裁きが告げられ、七年の飢饉、三ヵ月の敵国が追うこと、三日間の疫病かを選ぶよう尋ねられ、人間の手ではなく、「主の手に陥ることに…。主のあわれみは深いから(v14)」と神の裁きに服し、神の憐れみに拠りすがりました。神は疫病を下され、民の内七万人が死に、しかし、御使いが更にエルサレムに手を伸ばそうとした時、神は災いを下すことを思い直されました。(v16)ダビデは、民ではなく自らへの裁きを神に求めました。(v17)その日、ガドは、ダビデを訪れ、エブス人アラウナの打ち場に上り、主のために祭壇を築くよう命じ、ダビデは、その言葉に従い、祭壇を築き、全焼のいけにえを捧げました。神の裁きは、終わりました。
神の裁きからの救いは、ダビデの悔い改めによりましたが、その土台は、神の憐れみによりました。神は、ご自分からエルサレムを裁くことを思い直され、ご自分から救いの方法をガドを通し告げられました。さらに言うならば、ダビデ自ら罪が示されたのは、神の働きによりました。ここでダビデが祭壇を築いた場所は、ソロモン王が神殿を建てた場所、さらには神の御子キリストが十字架に架かれらた場所となりました。サムエル記はダビデの不従順をもって終えています。ダビデの生涯が神の憐れみによる恵みの生涯であったことを示しているのです。神は、まことに憐れみ深いお方です。ご自分に背いた私たち人間を憐れみ、御子キリストの十字架による贖罪の故に罪を赦し、神とともに生きる真の幸いの道を与えて下さいます。私たちは、信仰の歩みにおいても神を見失い、高ぶることがあります。しかし、その中で罪が示されることがあります。それは神の働き、聖霊の働きです。決して嬉しいことではありませんが、神がお取扱いになろうとされているのです。そして、蒔いた罪の種を刈り取らなければならない、神の裁きに服さなければならないこともあります。でも、その時に、魂が打たれ、神の憐れみに拠りすがる者を、神は、赦し、必ず立ち上がらせて下さいます。神は、そのようにして練り聖め、ご自身の憐れみを証しされるのです。そうしていく時に、神がダビデに対するサタンの誘いを許容されたことが(v1)、少し見えてきます。神は、ダビデの高ぶりを砕かれ、深くお取扱いになり、ご自身の憐れみを証しされたのです。
自分の罪や弱さが示された時、神の深い愛のお取扱いの時であることを覚えましょう。神の裁きに服す時、神の憐れみに拠りすがり、キリストの十字架を見上げ、神に身を委ね、主を待ち望みましょう。神が私たちに与えて下さっているのは、災いの計画ではなく、平安を与える計画であり、将来と希望を与える計画であるのです。(エレミヤ書29:10~11)