弱さの隣に

卒業、入学

この春、息子が伊奈特別支援学校の小学部を卒業し、中学生になりました。

三歳五ヶ月の検診で、与えられた課題がほとんど出来ず、保健師さんより「発達が少し遅れているかも」と言われたのが始まりでした。

第一子ということもあり、夫婦で無我夢中で子育てをしてきて、「エアコンの室外機がくるくる回るのが随分好きな子だな」とは思いつつも、発達が遅れているとは全く気づきませんでした。

 

自然と涙が

それ以来、市の療育センターや阿見町の県立医療大学病院等に通い、療育を受け、同年齢のお子さんに少しでも近づかせたいと必死でした。

幼稚園に入園し、一年半ほど経った五歳の時、専門の病院で診断を受け、障碍があることがはっきりと分かりました。夫婦とも何をしていても、自然と涙が出てきました。

小学校は、地域の学校に入学しましたが、三年生より支援学校に転校しました。

 

息子の涙

昨年のクリスマス、教会のクリスマス行事がすべて終わった時、息子に近づくと、泣いていました。何か嫌なことがあったのかなと初めは思いました。

でも、それはクリスマスの讃美歌を歌ったり、教会の方々が嬉しそうにしていることが終わる寂しさからの涙でした。翌日のデイサービスでも一日中泣いていたようです。

その時、「神様は、この子の内にこんな優しい心を与えて下さっているのだ」と胸が熱くされ、同時に障碍があると分かっていても、こだわりや同じことを繰り返す特性を十分理解できず、感情的になってしまった出来事が走馬灯のように思い出されました。

 

弱さの隣に

近くの野田市では、痛ましい虐待の事件が起きました。マスコミや様々な人々が「自分の子の命を奪うなんて信じられない」「虐待なんて考えられない」と言います。確かにその通りです。でも、それらの言葉に私の心はどこか痛みます。抑えられなかった数々の怒りの言動が思い起こされてくるからです。

聖書に出てくるパウロの言葉が自分の姿を表わしています。「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。…私は本当にみじめな人間です。

だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:14~24)」

でも、その嘆きの隣には、こんなに弱い私を愛し、私の罪の身代わりに十字架で死んで下さったイエス・キリストがおられ、罪を赦し、「さあ行こう!」と絶えず再出発を与えて下さいます。

 

「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(詩篇30:5)」神様はあなたを愛しておられます。神の愛に支えられ生かされていきましょう。

 

守谷聖書教会

牧師 鈴木洋宣