聖書箇所 コロサイ1:13~23
1:13 御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
1:14 この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
1:17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。
1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。
1:19 なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、
1:20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。
1:21 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、
1:22 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。
1:23 ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。
説教要旨
本日の御言葉は、この手紙のクライマックスと言うことができる箇所です。私たち人間は造り主なる神に背き罪を犯し、暗闇の力、罪の力に支配されています。神は聖なるお方であられ、罪を忌み嫌われ、義なるお方であられ、罪を正しく裁かれ、私たちは罪の故に神の前に立つことができない者です。しかし、父なる神は、私たちを暗闇の力から救い出し、愛する御子のご支配の中に移して下さいました。私たちは「贖い、すなわち罪の赦しを受けています(v14)」贖い、罪の赦しには、神に対する罪の償いが必要でした。「御子にあって(v14)」と、御子イエス・キリストが十字架で神に対する罪の償いとなられ、私たちを罪の支配から御子のご支配に移し出し、贖い、罪の赦しを与えて下さっているのです。
何故、イエス・キリストの十字架の死が私たちを罪の支配から解放し、贖い、罪の赦しをもたらすのかを記します。イエス・キリストは目に見ることができない神の完全な現れであられます。(v15)万物の創造以前に存在されたお方であられ、永遠において父なる神と交わりを持たれる御子であられます。万物を創造され(v16)、保持・統治されておられます(v17)。その神であられるイエス・キリストは、万物の創造以前に存在し、万物を創造されたように、死者の復活に先立って復活され、永遠のいのちを私たちに、教会にもたらして下さいます。(v18)真の神であられ、真の人となられたお方が十字架に架かって死なれたので、人の罪の償いとなられ、また人の罪を贖うことができ、神に立ち返る救いの道を開くことができたのです。ですから、私たちは、贖い、罪の赦しを得ているのです。(v13)赦されざるべき者が赦されているのです。
パウロは、今まで述べてきた神の和解の出来事をコロサイ教会にも当てはめていきます。(v21、v22)コロサイ教会の者は、かつては、神から離れ、神に敵対し、悪い行いの中にありました。でも、神は、御子イエス・キリストの十字架の死により和解させて下さいました。それは「聖なる者(神に取り分けられた者)」「傷のない者」「責められるところのない者」として神の前に立たせるためであったのです。「御前に立たせるため(v22)」とは、将来にということではない。イエス・キリストを信じ、和解させられたその時に、私たちを取り分け、傷のない者、責められるところのない者として、神の前に立たせて下さったのです。罪の出来事そのものがなくなってしまうわけではありません。傷は、傷です。罪は、罪です。しかし、イエス・キリストが十字架で死んで下さり、贖いの業を成し遂げて下さったので、私たちは、今神の前に取り分けられ、傷のない者、責められるといころのない者として立たせられているのです。そして、神を愛する歩みにおいて、神がすべてのことを働かせて益として下さるのです。その傷、悪い行ないすらも、事実は事実として消えることはありませんが、それらを用いて益として下さる、キリストに似る者として下さるのです。(ローマ8:28)この信仰の恵みに堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることがないようにと告げました。(v23)それは、まさにパウロが宣べ伝えていた福音、いいえ、教会を迫害し、神に罪を犯し、傷を負っていたパウロを赦し、神のものと呼び、傷のない、責められることのない者とし、神がともにいて下さる喜びに立たせていた福音でした。
この朝、神の御子イエス・キリストが十字架で贖いを成し遂げて下さり、私たちが、今、神の御前に「聖なる者」「傷のない者」「責められるところのない者」として立たせていただいていることを覚え、神に感謝を捧げましょう。自分への責めがあるかもしれません。でも、神は、その私たちをすべて赦して下さっておられ、ともにおられます。日常の闘いの中で神が私たちをそばにおいて下さっておられます。ですから、この信仰に堅く立ち、福音の望みから外れることがなく、救いの道を歩んでいきましょう。