聖書メッセージ『光は闇の中に』(ヨハネ1:1~8)

聖書箇所 ヨハネ1:1~8
1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
1:7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
1:8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。

 

説教要旨(待降節第一礼拝)
待降節を迎えました。また、本日は新会堂10周年の記念の日です。待降節は、ヨハネ1:1~18の御言葉に聴いていきます。この箇所はヨハネ福音書の「序文」ですが「結論」とも言うことができます。福音書の主題が告げられています。イエス・キリストを「ことば(v1)」と告げています。それは主イエスにおいて神が説き明かされ、主イエスを見るとそこに神を見ることができたためでしょう。(v18)天地の創造以前にすでに「ことば(v1)」主イエスは存在していたのです。「ともにあった(v1)」は「向かい合って」です。主イエスは父なる神と向かい合い、交わりを持っておられたのです。異なる人格(位格)であられ、同時に深い交わりがあったのです。「ことばは神であった(v1)」主イエスは父なる神と優劣があるのではなく、本質において一つであられたのです。2節は1節で告げたことを念を押すように告げます。「この方は、初めに神とともにおられた(v2)」続いて主イエスが創造の御業をなされたことを告げます。(v3)主イエスは創造以前におられ、神とともにおられ、神であられ、創造の御業をなされた「ひとり子の神(v18)」「神の子(20:31)」であるのです。

 

ひとり子の神である主イエスが救い主、キリストであることを告げます。「この方にはいのちがあった。(v4)」 「いのち(v4)」とは、永遠のいのちのことです。主イエスは父なる神との交わりがあり、いのちがあったのです。(11:25)そして、このいのちは「人の光(v4)」でした。「ことば」が「いのち」であったことを告げたと同様に、「いのち」は「人の光」であったと告げます。主イエスは世の光であったのです。(8:12)「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。(v5)」イエス・キリストは闇の中に輝いておられます。私たち人間は「闇の中に(v5)」います。虚しさの闇、人への不平や怒りや恐れの闇、試練の闇、死に対する絶望の闇の中を歩んでいます。この世界は叫び嘆いています。「誰か自分を分かってくれ。自分を愛してくれ。」その嘆きの源は造り主なる愛なる神を知らず、神との交わりを失っていることです。しかし、唯一永遠のいのちを持っておられるお方、光のお方がおられます。イエス・キリストです。(v4)そして、ひとり子の神、永遠のいのち、光なるイエス・キリストは二千年前闇の中に来て下さいました。「光は闇の中に(v5)」です。それがクリスマスの出来事です。「闇はこれに打ち勝たなかった(v5)」イエス・キリストは私たちを愛し十字架で死なれ、死の中からよみがえり罪に打ち勝たれたのです。ですから、いかに私たちの闇は深くても、その深い闇の中でイエス・キリストは輝いており、私たちにいのちの光を与えて下さいます。最も深い闇、肉体の死においてもイエス・キリストにあっては御国の希望があるのです。イエス・キリストを信じ、永遠のいのちを持って歩んでいただきたいのです。キリスト者の歩みにおいても闇が覆うことがあります。でも、今日もその闇の中にイエス・キリストは輝いています。主イエスを見上げ、闇の中に留まることなく、光の中を一歩一歩歩んで参りましょう。

 

v6からは、バプテスマのヨハネのことが告げられています。バプテスマのヨハネは生きる目的がはっきりしていました。ただイエス・キリストを証しし、すべての人々をイエス・キリストへの信頼へと導くことでした。本日は新会堂が与えられ丸10年が経ちました。教会と私たち一人ひとりは日常の歩みにおいて、そして本日の記念のクリスマスコンサートにおいて「ただ光について証する」者であらせていただきたいのです。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。(ヨハネ3:30)」古い自分に死に、イエス・キリストのみが崇められる教会でありたいのです。何故なら私たちは、いのちではありません。光ではありません。この闇深き世において、いのちの光の中を歩ませて下さることがおできになるのは、真のいのちであり、真の光であるイエス・キリストだけであるからです。