聖書メッセージ『主の御腕は』(イザヤ53:1)

聖書箇所 イザヤ53:1

53:1 私たちが聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕はだれに現れたか。

 

説教要旨

昨週水曜日からレントに入り、主の受難を思う季節が始まりました。この受難節の日々、イザヤ書53章の御言葉に聴き、イエス・キリストの十字架の御愛と御救いを覚え歩んで参ります。イザヤ書には、救い主が来られるとのメシア預言があります。大変有名な箇所は、クリスマスの時期に開かれる「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。…ダビデの王座に就いて、その王国を治め…(9:6~7)」です。救い主が「王」として語られています。その一方で同じイザヤ書において救い主が「しもべ」として語られています。イザヤ書には四つの「しもべの歌」があります。(42:1~9、49:1~6、50:4~9、52:13~53:12)その中で、この53章が最高潮のものです。53章の「しもべの歌」は52:13~15に続いています。52:13~15は53章の「序論」です。歌い手は、神ご自身です。「栄える(52:13)」は、思慮深く行う、成功するとの意味です。そして立場が高くされることが語られています。(v13)しかし、v14は、それとは対照的にしもべの苦しみが語られています。しもべの栄光と苦しみが語られ、53章ではこの順序が逆となっています。「そのように、彼は多くの国々に血を振りまく。(52:15)」「血を振りまく(52:15)」とは、「聖め」を表しています。苦しみと栄光のしもべが国々に聖めをもたらすのです。神に造られ、しかし、神に背き、神に造られた本来の喜びを失っている私たち人間に罪の赦しを与え、神に立ち返らせ、神とともに歩むいのちをもたらすのです。この「しもべ」は、イエス・キリストです。(ピリピ2:6~11)イエス・キリストは、造り主なる神に背を向け、罪の状態から私たちを聖めて下さるのです。

 

「口をつぐむ(52:15)」行為は、畏敬を表します。しもべの苦しみと栄光が聖めをもたらすとの聞いたこともないことを悟るためです。「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。(v1)」歌い手は、イザヤとなります。「私たち(v1)」とはイザヤと52:15でしもべの苦しみと栄光が聖めをもたらすことを悟った者たちのことです。「だれが信じたか(v1)」との言葉の背景には、民の強い頑なさがあります。(6:9~10)心の目と耳を神に固く閉ざしています。しかし、「主の御腕はだれに現れたか。(v1)」と続きます。「主の御腕(v1)」とは、「主の力」を表します。「現れる(v1)」とは、覆い隠されたものが取り除かれることです。神が救いの御業を民になして下さること(52:10)、と同時に受け取る民の頑なさを取り除けて下さるのです。主の御腕が民の固く閉ざされた心に「信仰」を与えて下さるのです。

 

振り返りますならば、私たちは自分を中心に歩み、神に対し固く心を閉ざしていました。しかし、今は神に信頼して生きないことが罪であり、イエス・キリストの十字架の死が私たちの罪の身代わりの死であり、キリストは罪と死に打ち勝ち、復活され、今生きてともにおられる救い主であることを信じています。不思議に思います。主が信仰の眼を開けて下さったからです。そして、主は信仰の出発の時だけではなく、ますます私たちの信仰の眼を開け、ご自身の愛とキリストの十字架と復活による救いの恵みを悟らせ、神にある喜びに生かして下さいます。時にイスラエルの民がバビロニア捕囚の苦しみの中で神に心開かれたように、詩篇の詩人が「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)」と歌っているように、神は試練の中でご自身へと私たちの心をお開き下さいます。「目が見えるようにしてください。(マルコ10:51)」との祈りを主イエスは決して地に落としません。こうして神の愛と救いの喜びに生かされつつ、主は私たちの内にこの喜びに私たちの愛する人にも与ってほしいとの思いを起こして下さいます。そして執り成しの祈りへと導かれ、その執り成しの祈りは決して地に落ちていません。「主の御腕はだれに現れたか。(v1)」主の御腕は私たちに現れ、私たちの祈りに覚える隣人に現れて下さいます。