聖書メッセージ『彼は蔑まれ』(イザヤ53:2~3)

聖書箇所 イザヤ53:2~3

53:2 彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。

53:3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。

 

説教要旨

今、私たちはイエス・キリストの十字架の御苦しみを特別に覚える受難節の中を歩んでおります。昨週よりイザヤ書53章の御言葉に聴いています。「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。(v2)」「ひこばえ(v2)」とは、「木の脇芽」「切り株などの根元から生える芽」のことです。「砂漠の地から出た根のよう(v2)」とも語られています。いずれも「しもべの誕生のひ弱さ」を象徴しています。「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。(v2)」しもべは人の目にとまらない、人間の目に魅力があると思われるもの(地位、財、権力)を持たないのです。そのように弱々しく生まれ、人の目にとまらないしもべでしたが、「主の前に(v1)」と、主なる神のご計画の中で生まれ、主なる神が生涯を覚え導かれたのです。イエス・キリストは、家畜小屋で生まれ、飼い葉おけに寝かされました。ガリラヤの寒村ナザレ村に育ち、30歳の公生涯が始まるまで大工ヨセフの子として通常の歩みをなしました。でも、そのイエス・キリストに出会った羊飼いたちや異邦人の東方の博士たちは、主イエスの前にひれ伏し、神を賛美して帰りました。主なる神はイエス・キリストをこの世に与え、そのご生涯を導かれたのです。

 

「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。(v3前半)」しもべは人々に軽蔑され拒まれました。「悲しみの人(v3)」とは、心において悲しみや痛みを生涯の特色とした人ということです。「病を知っていた(v3)」体の弱さを経験し知っていました。イエス・キリストは、私たち人間が受ける人との関係や心身における悲しみ、苦しみ、闘い、恐れを徹底してお受けになられました。「人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。(v3)」とりわけ、その最後において蔑まれました。弟子のユダに裏切られ、弟子たちに捨てられ、ローマ兵士から「ユダヤ人の王」とからかわれ、頭を葦の棒でたたかれ、つばきをかけられました。十字架上で「お前が神の子なら、十字架から降りてみよ、自分を救え。」とあざけられ、ののしられました。イエス・キリストは、生まれてから死ぬまで、苦難のご生涯でした。

 

しかし、まさにそのような苦難の生涯と死をお受けになられたのは、私たちの苦しみを負い、私たちを丸ごと救うためでした。私たちの生きる世界は神に背いた結果、悲しみがあります。(創世記3:17~19)生まれ、育ち、成長し、働き生きる、そして死において苦しみの生涯です。しかし、救い主は苦難のしもべであるのです。(へブル4:15~16)もし救い主が苦難のしもべでなかったら、私たちの心と体の弱さの隣人になってくれることはなかったでしょう。私たちの死の恐れの隣人となってくれることはなかったでしょう。でも、イエス・キリストは、私たちと同じように心と肉体を持ち生まれ、この世の苦しみをお受け下さった方であられるので、私たちのいかなる弱さ、闘い、苦しみを蔑まれることがなく、ともに苦しんで下さるのです。福音書において、イエス・キリストが人々をご覧になられた時に溢れ出た感情の言葉は、「深くあわれみ」です。(マタイ9:36、マルコ1:41、ルカ7:13他)「内臓」を表す言葉からできていて、苦しみをともに担い、はらわたがちぎれるほど苦しんで下さるのです。そして、その愛は、イエス・キリストを十字架に向かわせました。イエス・キリストは、私たちの罪を負い、罪と罪の結果の様々悲惨な状態から私たちを解放して下さるためでした。そして、復活されたイエス・キリストは、天に昇られ、父なる神の右の座で、断腸の思いをもって私たちのために執り成して下さっておられます。こうして弱い者が強くされるのです。(へブル11:34)

 

神の右の座でともに苦しんで下さるイエス・キリストの執り成しに支えられ、恐れることなく、神の恵みの座に出、神ご自身から時にかなった助けを受け、強くされ、この世の旅路を歩み、神の栄光を現して参りましょう。