聖書箇所
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
説教要旨
受難節、イザヤ書53章の救い主を示す「苦難のしもべ」の御言葉に聴いております。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。(v4)」「まことに(v4)」と、しもべの苦しみは、しもべ自身の故ではなく、私たちの身代わりであったことを愕然たる思いで告げます。「病(v4)」「痛み(v4)」はいずれも複数形です。「病(v4)」は、病気だけではなく全人的に弱っている状態を、「痛み(v4)」は、生きる上での様々な苦痛や悲しみを表しています。しもべは、「悲しみの人で、病を知っていた(v3)」とありました。しかし、それは私たちの病を負い、痛みを担ってのものであるのです。しかし、自分たちは、彼は彼自身の罪の故に神に罰せられたと思うというのです。(v4)でも、そうではなかったとイザヤは告げます。「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。(v5)」「背き(v5)」は、神に対し逆らっていること、「咎(v5)」は、人の心と言葉と行為の悪を表します。いずれも神に対してのものです。羊飼いから離れ彷徨う羊のように、人は神に背き、神から離れ、自分を中心として歩み、しかし、彷徨い、滅びに向かっています。(v6)神に対しての「背き(v5)」と「咎(v5)」が人に「悲しみ(v4)」「病(v4)」をもたらすのです。
イザヤは、この私たちの罪のために、私たちではなく、しもべが「…刺され、…砕かれたのだ。(v5)」と神に裁かれたと語りました。神は、私たちの罪をイエス・キリストに担わせ、身代わりにイエス・キリストを裁かれたのです。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。(v5)」「平安(v5)」は、神との関係の回復であり、それに基づく体と心すべての祝福を、「癒す(v5)」は病気の癒しだけではなく、罪の赦し、心の癒し、傷の癒しを表しています。(詩篇103:1~5参照)神は、私たちの罪の身代わりにイエス・キリストを十字架で裁かれることにより、私たちの罪を完全に赦し、神との関係を回復し、体も魂もすべてを神のものとし、祝福をもって導いて下さるのです。
「私たちも彼を尊ばなかった。(v3)」とイザヤは神に対する自分の罪が見えず、しもべを苦しめ私たちを救う神の御業が分からなかったのです。しかし、「私たち(v4、v5、v6)」と繰り返し、神に対する罪とその罪を負って下さる救い主を知ったのです。神は、私たちが自分の罪に気づき認めるまで働きかけ、しかし待たれます。放蕩息子の例え話でもそうです。父親は息子を遠い地に行かせ、ひたすらに待ちます。神の救いを必要とすることに自ら気づき向きを変えようとする前に、神から私たちの魂に踏み込んで救いを与えることはありません。しかし、私たちが自分の罪を認め、神に向きを変える(悔い改める)やいなや、神はイエス・キリストによって成し遂げて下さった救いに与らせ、罪を完全に赦し、神の平和と癒しを与えて下さいます。クリスチャンは、イエス・キリストを信じ、すでに罪の赦しをいただき、神の平和と癒しの中を歩んでいます。但し、「まことに、彼は(v4)」と自分の罪を知り、キリストの十字架の御苦しみを仰ぐのはクリスチャンになった時だけではありません。クリスチャンの歩みは自分を見つめ、自分の罪の深さに気づかされていく歩みです。人のせいや環境のせいにし、自分を納得させようとします。しかし、平安がありません。自分を見つめ、自分の罪を見つめるよう神は導かれています。そして、自分の罪の心と歩みをそのまま神に告白する時、神はその都度その罪を赦し悪から聖めて下さいます。(Ⅰヨハネ1:8~9)「またやったのか」「まだそうなのか」とは仰せられません。主イエスの十字架の愛に立ち返るならば、いつでも幾度もその罪を赦し悪から聖めて下さいます。こうして神はキリストの十字架の苦しみによりもたらされた平安と癒しの中に私たちを保ち造り変えて下さいます。そうした積み重ねの歩みを通し神の栄光を現し神の働きに仕えていく歩みへと導かれていくことができるのです。