聖書箇所 ローマ5:1~2
5:1 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
説教要旨
昨週、神の「義認」を見ました。パウロはローマ3章と4章で義認を語り、この5章で「義認の祝福」を語っています。「私たちは…神との平和を持っています。(v1)」現在形で、今神との平和を持っていると語ります。「信仰によって義と認められたので(v1)」とあります。主イエスが私たちの罪の身代わりに十字架に架かり死んでくださり、主イエスを信じ、罪が赦されたので神との平和を持っているのです。信仰によって義と認められる以前は、神との平和を持っていませんでした。「敵であった私たち(v10)」とあります。神に背き、神の怒りが私たちに啓示されていました。(1:18、2:5~6)アダムが罪を犯したとき、神はアダムとエバをエデンの園から追放されました。神との関係が失われたのです。私たちは、罪の故に神の側から疎外されていました。神の側に私たちに対する聖なる敵意がありました。神と私たちの間には仕切りがありました。(イザヤ59:2)
しかし、神は、私たちを愛し、神の御子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりに十字架で裁かれ、イエス・キリストによって私たちに対する神の側の敵意を取り除かれたのです。神は、和解を私たちに与えてくださったのです。(v10)神の和解によって神との平和の関係とせられたのです。(v1)義認は、罪が赦され裁かれないことです。しかし、ただ罪が赦され裁かれないだけではなく、神と和解させていただいたので神との平和の関係を持っていることです。言い換えるならば、神に受け入れられていることです。遠い未来ではなく、今神との平和を持っているのです。今神に受け入れられているのです。
パウロは続いてもう一つの義認の祝福を語っています。「今立っているこの恵みに導き入れられました。(v2)」「恵み(カリス)(v2)」は、神の好意、神の愛顧、神の優しさです。ある聖書注解者は「今立っているこの恵み」を「神の寵愛の場」と説明しています。神の愛、神の好意、神の優しさの祝福の中に導き入れられ、立っているのです。継続した恵みの中にある状態を表しています。言わば神は私たちに敵対しているのではなく、味方しているのです。(ローマ8:31~32)天の御国に入れられるその時まで、神は私たちの味方として私たちを神の恵みの中に立たせ続けてくださいます。但し、それは「苦難がない」のではありません。「苦難さえも喜んでいます。(v3)」とあります。私たちは苦難や罪との戦いはあるのです。でも、神の恵み、神の寵愛の場の中に立たせていただいているのです。また、それは神が私たちを全容認することではありません。「忍耐が練られた品性を生み出し(v4)」とあります。神は味方として私たちの変えられなければならない部分を取り扱い練り聖められます。そして、神が味方として神の恵みの中に立たせてくださるのは、私たちの弱さや失敗によって変わることはありません。人との関係においては残念なことですが今日の味方が明日の敵となることがあります。私たちは相手の一つの言葉や態度で容易に思いや態度が変わってしまう弱い者です。しかし、神は違います。「今立っている(v2)」とあります。神の恵みの場に導き入れ、立たせられていることは決して変わることがないのです。永遠の赦しであり、永遠の和解と平和であり、永遠の恵みの状態です。主は決して私たちの敵と翻られることはありません。私たちの味方であり続けてくださいます。
神は、御子イエス・キリストの十字架の死の故に私たちを義とし、神との平和の関係とし、受け入れてくださっておられます。そして、神の恵みの中に導き入れ、神の恵みの中に立たせてくださっておられます。年の後半、私たちの側にともにおられる神に信頼し、待ち望み、重荷を委ね、神の恵みを受けつつ、この世の旅路を歩んでいきましょう。神は、私たちの変わることのない味方として、私たちを助け、力づけ、時に戒め、でも決して離れることなく、歩みを導いてくださいます。