- お母さん、どうして泣くの?
ある牧師が、日曜日の礼拝中、後ろの席から母親と息子が親子喧嘩している声が聞こえてきたそうです。母親が子に「静かにできないなら、帰ります」しかし、次第に怒り声から涙声になっていきました。息子は尋ねました。「お母さん、どうして泣くの?」母親は「疲れちゃった…」
その息子は発達に障碍を抱えている高校二年生でした。牧師は礼拝が終わり声をかけました。母親は、
はにかみながら言ったそうです。「今日は、泣くために来ました」前の年に夫を亡くされてもいました。
その牧師は記しておりました。「この親子はほぼ毎週日曜日礼拝に来ます。今も同じような会話を繰り返しながら…自分たちを受け止め受け入れてくれるお方の前で泣くために、喜ぶために…。」
- 疲れちゃった…
「疲れちゃった…」ということがあるのではないでしょうか。特に今はコロナ禍の中で感染への不安、コロナやワクチン接種に対する考え方の違いからくる難しさ、出掛けたり人と会って話したりすることが制限されているストレスがあります。
またコロナに限らず、生きることにおいて重荷を負い、傷つき、希望を失うことがあります。子育てや介護で来る日も来る日も同じことの繰り返しに疲れ、誰にも顧みられず理解してもらえないことがあります。信頼していた人から裏切られたり、傷つけられる言葉を言われたりという人間関係のもつれがあります。
- ほかの者はあずかれない
「心はその人自身の辛さを知っている。その喜びにほかの者はあずかれない。(箴言14:10)」
その辛さや苦しみを伴侶や友に勇気を出して話すことがあります。聞いてもらい、どこかすっきりとした思いともなります。でも、人の愛の限りを覚え、何か虚しさが残ることもあるのではないでしょうか。
聖書は、受け入れ合っていたアダムとエバが創造主なる神に背いたとき、真っ先にいちじくの葉で互いに自らを隠したと告げます。弱さを見せる恐れが生じました。人と人との間に本当の意味で寄り添い分かり合えない断絶が生じました。深い孤独です。
- たましいに安らぎが
そのような私たちの悲しみと深い孤独を受け止めてくださるお方がおられます。
救い主イエス・キリストです。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。…あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」(マタイの福音書11:28~29)」
イエス・キリストは、私たちのすべての日に、そして死においてさえも、ともにおられる伴走者です。
このお方に重荷を下ろし、信頼し従っていくときにこの世では得ることのできない安らぎと新たな力がたましいに与え続けられていくのです。
守谷聖書教会
牧師 鈴木洋宣