聖書箇所 ガラテヤ6:1~5
6:1 兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
6:2 互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。
6:3 だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。
6:4 それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。
6:5 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。
説教要旨
聖化は、ただ私がキリストに似る者として造り変えられていくという個人的ことだけではなく、私たちがともにキリストに似る者として造り変えられていくという教会的なことです。「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、…正してあげなさい。(v1)」「過ち(v1)」とは、正しいことから逸れること、律法に背くことです。「正す(v1)」は「繕う」「整える」「もとに戻す」との言葉です。「責める」「罰する」との意味はありません。兄弟を整える時に見なければならないのは相手ではなく自分自身です。「御霊の人であるあなたがたは、柔和な心で(v1)」聖霊に拠り頼み、御霊の実である「柔和(謙遜)(5:22)」の心をもって繕うのです。私たちは「古い人」が顔を出します。相手を正す時に自分は違うと高慢になっていることがあります。怒りを制御できないことがあります。ですから「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。(v1)」と教えています。
「互いの重荷を負い合いなさい。(v2)」互いの重荷を負い合うその一例が1節のことです。教会は互いの重荷を負い合う群れです。「重荷(v2)」との言葉は「バロス」で、日常生活の苦しみや悲しみを表します。1節との文脈から考えるならば、過ちがあり苦んでいる相手に「自業自得だ」と放っておく、関わらないというのではありません。互いの過ち、互いの弱さをともに負っていくのが教会です。また、日常生活の互いの苦しみや悲しみを負い合うのです。具体的に何かをするということもあるでしょう。でも、実際はなかなかそうできないのです。でも、あの人が苦しんでいる、今闘いの中にある、すべてが分かるわけでは決してありませんが、その人を思うのです。「親切(5:22)」は思いやる心です。そして、それが御霊に導かれて必要に応じて「善意(5:22)」言葉や行いとなっていきます。そうやっていく時に「キリストの律法を成就することになります。(v2)」キリストの愛を知り、助け主なる御霊に導かれて互いに愛し合う、互いに建て上げられていくキリストの律法を全うすることになるのです。(ヨハネ13:34)パウロは、互いの重荷を担い合い互いに建て上げられていくときに吟味するのは、相手ではなく自分自身であることを重ねて教えます。(v3、v4)「自分が何者かであるように思う(v3)」過ちに陥った兄弟を見て、優越感に浸るようならば、「自分自身を欺いている(v3)」、自分の罪や弱さを真実に見ていないのです。苦しみや悲しみにいる兄弟を見て、自分は苦しみを自分で乗り越えることができる、自分は強い、自分は兄弟を必要としない、祈ってもらう必要はないとしているなら自分を欺いているのです。自分の行いを本当に吟味するならば、決して他の人に自分を誇ることができないのです。私たちが誇ることができるのは、ただ一つ、イエス・キリストの十字架です。(v14)
このようにして私たちが互いに建て上げられていくときに、私たちはそれぞれ自分の重荷を負うことになっていきます。(v5)「重荷(v5)」は、「重荷(v2)」とは原語で異なり、「フォルティオン」という言葉で「使命・義務」を表します。教会において互いの重荷を担い合っていく歩みにおいて、私たち一人ひとりは教会において自分の分を担っていく歩みへと導かれていくのです。私たちは主の教会の霊的な交わりに支えられて、家庭や職場において、主から委ねられている務めをなしていくのです。
互いの重荷を負い合っていく、弱さを担い合っていく、言葉で言うのは簡単ですが、実際の歩みには本当に難しさや闘いを覚えます。決して自分の力ではできません。しかし、「御霊の人であるあなたがたは(v1)」イエス・キリストの十字架の救いをひたすら仰ぎ、御霊に並んで、御霊に従って、御霊を規範としていくときに、そのような教会へと聖化されていきます。そして、一人ひとりが教会において、また置かれた持ち場において自分の分を果たしていく教会へと聖化せられていくことができるのです。