聖書箇所 出エジプト記20:13
20:13 殺してはならない。
説教要旨
「殺してはならない(v13)」ここでの「殺す(ラーツァフ)」との言葉は、憎しみといった個人の感情に基づく殺人を意味します。何故人の命は大切なのでしょうか。それは自明であるようで自明でないように思います。聖書は命の尊厳の根拠を二つ挙げております。第一に神がその命を造られたからです。偶然ではありません。命は神の賜物です。私たちが生きているのは神の御心です。神の御心である命。それを奪うことは神の御心ではありません。第二に人は神のかたちに造られたからです。神に似せて造られたのです。神と交わり、互いに交わり、この地を適切に治め、神の素晴らしさを現わす(映し出す)存在として造られたためです。神から使命が与えられているためです。
この戒めは、ただ肉体の命を奪ってはならないとの教えではありません。(マタイ5:21~22)(ヨハネ3:15)怒らず、蔑まず、憎まず、悪に対し悪で応えずという殺人の根を捨てる戒め、心の中の隠れた殺人を禁じる戒めでもあります。私たちは「愛する」というと「優しくする」「親切にする」「励ます」ということが真っ先に思い浮かぶことでしょう。確かにそれらも愛するということです。しかし、聖書は愛とは「怒らず」「憎まず」といった「○○をしない」との面もあることを教えています。「…苛立たず、人がした悪を心に留めず…(Ⅰコリント13:5)」「人を殺してはならない」との戒めは肯定的な表現では「人を生かす」「人を建て上げる」ということでしょう。(Ⅰコリント8:1)しかし、人を生かし建て上げるためには、苛立たず、人がした悪を心に留めずという自分に死ぬ面が必要でしょう。渡辺和子シスターはそれを「小さな死」と呼びました。私たちは「生きたまま」では、「小さな死無し」には、人を生かし建て上げることはできないのです。そこには忍耐が必要ですし、赦しが必要ですし、自制が必要でしょう。強い誘いがあります。「ここまで我慢してきたのだから、言い返すように」「自分を救え。十字架から降りよ」「あなたの方が立場が上なのだからやり返せ」そんな誘いの言葉が心の内に溢れます。でも、自分を肉的に喜ばす道ではなく、十字架の道、仕える道を歩み、そこに立ち返り、そこに留まっていくのです。その十字架の道を歩んでいく、自分に死に人を生かす道を歩んでいく歩みに、十字架で死なれたイエス・キリストがそうであったように、十字架の死を経て復活の道、本当に私たちが真の喜びの中を歩んでいく道が与えられていくのです。今の苦しみ、今の戦いを投げ出さず、忍耐し、主を待ち望んでいくことが、やがての喜び、やがての祝福の道へと繋がっていくのです。
しかし、私たちは人を生かし人を建て上げることが難しいのではないでしょうか。いかに隣人を生かし建て上げる歩みへと導かれるのか。神は私たちを罪の中から救い出しともにおられます。(v2)神の前にひれ伏し、神の助けをいただくことによってです。忍ばれ十字架で死なれ復活され罪に勝利された救い主イエス・キリストを心に留めることによってです。(23:20)救い主イエス・キリストの名を呼ぶのです。イエス・キリストに重荷を下ろすのです。イエス・キリストと交わり、主の愛を受けるのです。そこに不思議ですが、私たちの心が主の愛の中で取り扱われます。癒され、苛立つ心に平静が備えられます。裁きに満ちた思いが自らも主イエスに赦された罪人に過ぎないとの思いとせられます。仕える心が取り戻されます。神に委ね主を待ち望む思いとせられます。「私をあわれんでください。主よ。」と救いの岩、主の名を呼ぶのです。(詩篇31篇参照)
「殺してはならない(v13)」この週も神の助けをいただき、イエス・キリストの救いに拠りすがり、主の愛と御力に与り、隣人の命と存在を尊び、小さな死を積み重ねる忍耐の道、仕える道を歩み、隣人を生かす歩みへと導かれていきましょう。主イエスが道中ともにおられます。(23:20)