聖書メッセージ『神の子のイエスの誕生』 (マタイ1:16)

聖書箇所 マタイ1:16

1:16 ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。

 

説教要旨

系図の記し方は一貫しております。例えばアブラハムの所を見ますと「アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み(v2)」との記し方です。ダビデも基本的には同じ記し方で、違いは「ウリヤの妻によって(v6)」が加えられています。しかし、このv16はどうでしょうか。ヨセフがイエスを生みとヨセフが主語になっておらず、「イエスは、このマリアからお生まれになった(v16)」とイエスを主語としています。また「生み」ではなく、「お生まれになった(v16)」と受動態です。イエスの誕生にはヨセフの関与はなかったことを示しています。罪を受け継ぐ人間ではないことが示されています。イエスは神の働きによって生まれた神の御子であられるのです。では、神の子であられ、人ではないのか。いいえ、「マリアから生まれた(v16)」とイエスはマリアによってお生まれになられた人です。それが「キリストと呼ばれるイエス(v16)」、救い主であるのです。

 

救い主は、神の独り子であられ、人でした。教会は、救い主イエスは真の神であり、真の人であると告白してきました。イエス・キリストは神と同一の本質である神の御子であられましたが、人となられたのです。福音書が示す数々の御業は、神の御子としてのしるしでした。最大のしるしはイエス・キリストが死の中から復活されたことです。(ローマ1:4)また、その一方でイエスは真に人でした。マリアから生まれ、ガリラヤのナザレ村で育ち、食事をなされ、眠られ、疲れを覚えられました。

 

何故、救い主イエスは真の神であられ、真の人であられるのでしょうか。ひとえに、私たちを罪から救うためでした。この系図は人間の神に背く歴史でもあります。神を神とせず、神の御心に従わない的外れの歩みが示されています。イエス・キリストは、その罪から私たちを救うためにこの地に来てくださったのです。イエス・キリストが単に人であれば、系図が示すように罪を受け継いでおりますので、人の罪を償うことはできません。借金のある人は借金のある人の肩代わりはできません。しかし、イエス・キリストは、罪の全くない神であられましたから、私たちの罪を完全に償うことができ、神はイエス・キリストという完全な償いのいけにえを受け入れてくださったのです。また、人であられましたから、この罪の世で生きる私たちの苦しみやもろさや罪の力の強さを思いやることができました。思いやることができましたので、その罪を完全に担うことができました。イエス・キリストは私たちの罪を完全に担い、罪を償うための完全ないけにえとして罪を全く赦す救いの御業を十字架で成し遂げてくださったのです。そして、その神であられ、人となられたイエス・キリストが死の中から復活され今生きて私たちとともにおられるのです。私たちは愛する人とともにいることにおいて限界だらけではないでしょうか。一つは物理的・時間的に限界だらけです。ある人を何とか支え時間を共有したいと思えば、もう一人の人とはともにいることができません。また私たちはやがてこの地上での生涯を終える者です。しかし、イエス・キリストは死の中から復活され弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます(マタイ28:20)」と仰せられました。イエス・キリストは偏在の神、永遠の神として私たちと世の終わりまですべての日にともにいてくださいます。二つ目は心において限界だらけです。試練の中を通っている人と本当の意味でともに歩むことができません。しかし、人となられたイエス・キリストは「すべての点で私たちと同じように試みに会われ(ヘブル4:15)」ともに苦しんでくださるのです。どこにも持っていくことができない苦しみの中にある私たち、誰にも頼ることができず責務を負わなければならない私たちと人となられた救い主イエス・キリストはともにおられるのです。その救い主イエス・キリストに重荷を下ろし、主イエスの名を呼ぶ歩みに、イエス・キリストは支えを備え、一つひとつ道を備えてくださるのです。