聖書箇所 Ⅰヨハネ4:10
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
説教要旨
創世記3章8節に「そよ風の吹くころ」とありますが、さわやかな風と共に美しい景色が思い浮かびます。神ご自身が近づいて来られたのです。神との素晴らしい交わりが展開するはずでした。しかし、人とその妻は、「神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した」のでした。アダムとイヴは神から逃げたのです。罪を犯してしまったので、彼らは木の間に身を隠して、神を「避けた」のです。神との間に良からぬ関係が出来てしまいました。神のご期待を裏切り、神の敵となってしまったのです。暗黒の世界が始まりました。
私たちは、裏切る者を、敵を絶対に赦せませんが、「義と愛の神」はなおも人間を愛しました。神を裏切って敵となってしまった人間を愛し続けました。ここに、神の「敵をも愛する愛の最大面」が現れました。
神は刑罰として「苦しみ」を人間に与えました。罪人は、「神の厳しい仕打ち」と取りますが、神は、これ以上悪化しないように、反省して罪と戦うように設けた義と愛からのものでした。次に、神は、一つの国民ユダヤ人を選び世界への模範としました。そして、律法を与えました。十戒、憲法、諸規則と言われたものでした。何が善であり、何が悪かをよく判断し、極力罪と不幸を避けようと努力するためのものでした。次に神は、預言者を立て、人間の堕落を防ごうとしました。必要に応じて預言者を遣わし、あるいは助け、あるいは忠告し、あるいは警めました。実に、神は至れり尽くせりの愛を人間に注いだのでした。そして、遂に、神が一つの大きな事を為しました。それが、今日の聖書です。Ⅰヨハネ4:10。
敵となってしまった人間を愛された神は、次のような行動を為されたのでした。「私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました」。「宥めのささげ物」とは、旧約時代、神の怒りを鎮めるために、人間側から献げる物として、羊、牛などが、神は定められました。これは、人間は、神の前に、罪の償いをしなければならないことを自覚するためでした。しかし、それを人間が実行するとすればそれで全てが終わりで、その後の幸いはありません。神の持つ正しさ・義を満足させることは、この世には何もないのです。それゆえに、全能の神の御子が人間の代わりとなって、ご自分を宥めのささげ物となられたのです。
神が人間の世界にひとりの人となり入られました。罪の故に汚い狭苦しくなった世界に、喜んで入られ、一人の人として生まれました。その人となられた御子は、十字架につけられました。その行為は、人間の罪が為したものでした。「あいつは神の子ではない。ナザレの貧しいヨセフの子ではないか。抹殺すべきだ」と、ユダヤ人たちは、ローマ兵たちの手を借り、十字架につけ、殺してしまったのです。そういう恐ろしい罪深い人間の行為ですが、神は、驚くべきことに、人間がまじめに神に献げる贖いを求める行為に「切り換えて」くださったのです。神なんぞはいらないと言って、神を捨てた人間の為に、神は自らを犠牲にし事を為されたのでした。神は、ご自分で大きな問題を解決されました。預言者イザヤは、神の御心を叫びました。「もうあなたの罪を思い出さない」と(イザヤ43:25)。
その神の深い愛によって、人間の生きられる道が出来ました。そして、神、御子、聖霊は言われます。「さあ、全て出来ました。罪の問題は解決しました。さあ、罪の林から出てきなさい。そして、わたしに従いなさい。」今、この神のことばが、全世界の人々にかけられています。今はそういう時代なのです。今は恵みの時、救いの日です。(IIコリント6:2)。
私たちが神を愛したのでは決してありません。神が私たちを愛し続け、そして、私たちの罪のために、宥めのささげ物として、御子を遣わされたのです。ここに真の深い愛があるのです。