聖書箇所 ヨハネ1:4~5
1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
説教要旨(イヴ礼拝)
ヨハネは、イエス・キリストを「ことば」として記し、イエス・キリストは二千年前にこの地に来られそこで初めて存在したのではなく、この世界が創造されるその初めに、すでにおられ、神とともにおられ、イエス・キリストは神であられ、すべてのものはイエス・キリストによって造られたとイエス・キリストの「神性」を語っています。(v1~v3)そして、イエス・キリストにはいのちがあったと。(v4)「いのち」とは「神との交わり」を指しています。「このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている(v4~v5)」「闇(v5)」聖書は、人間は神に造られたが、造り主なる神に背いて以来、暗闇の中にいると明確に語っております。それは「いのち」、神との交わりがないのです。人が造り主なる神に背いていることを「罪」と言いますが、人は罪のゆえに暗闇の中にいます。いのちを失っています。世界は暗闇に覆われています。そして私たちも暗闇の中にあるのではないでしょうか。したいことができずしたくないことをしてしまう罪の力の暗闇、自分を丸ごと受け入れてほしいとの愛の渇きの暗闇、死への恐れの暗闇…。
イエス・キリストは、そういう闇の中にある「人の光(v4)」「まことの光(v9)」です。「闇はこれに打ち勝たなかった(v5)」のです。クリスマスは、神が救い主イエス・キリストを暗闇の世に遣わしてくださったことをお祝いする日です。イエス・キリストは、二千年前、この罪の暗闇の中に来てくださいました。しかし、この罪の世は、イエス・キリストが家畜小屋で生まれたことに表されているようにイエス・キリストを歓迎しませんでした。イエス・キリストは誕生の時、歓迎されなかっただけではありません。後にイエス・キリストは公の働きをなされますが、当時の宗教指導者に妬まれ、捕えられ、十字架刑に処せられ死なれました。いのちであるイエス・キリストが十字架上で「わたしは渇く(ヨハネ19:28)」と仰せられました。神の裁きを受け神との交わりを失いました。しかし、その後には「完了した(ヨハネ19:30)」と言われました。そして、イエス・キリストは死なれ墓に葬られましたが、死の中から復活されたのです。イエス・キリストは神に背く私たちの罪のために身代わりに十字架に架けられ、神の裁き(罰)を受け、罪の赦しと永遠のいのちを与える救いの御業を成し遂げてくださったのです。イエス・キリストの十字架の死は闇が打ち勝ったように見えました。しかし、イエス・キリストは十字架で死なれ、死の中から復活され、罪の暗闇に勝利してくださったのです。救いの御業を成し遂げてくださったのです。
「光は闇の中に輝いている(v5)」闇がなくなったとは記していません。闇はあるのです。世の重荷、痛みや悲しみはあるのです。でも、その闇の中にイエス・キリストは輝いているのです。イエス・キリストは飼葉桶の中に寝ておられたのです。ヨハネはずっと過去形で記していますが、ここだけは現在形で「輝いている(v5)」と記しています。二千年前この地に来てくださったイエス・キリストは死んで終わりではなく、復活され、私たちの罪の力の暗闇の中に、私たちの愛の渇きの暗闇の中に、私たちの病で苦しみ死を恐れる暗闇の中に今「輝いている(v5)」おられるのです。どんなに闇が深くても、その闇の中にイエス・キリストは輝いておられるのです。もし会堂のライトが全部消えたならば真っ暗となります。旧約時代は蝋燭が会堂の外の窓のところに薄っすらと見えていた状態と言えるでしょう。しかし、その蝋燭が会堂内に来て灯ったのです。灯っているのです。イエス・キリストは闇の中で輝いておられるのです。そしてことばなるイエス・キリストは私たちに語られています。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)」イヴ礼拝、蝋燭のともしびを見つめつつ、闇の中に輝いているイエス・キリスト、人の真の光であるイエス・キリストを仰ぎ見て、いのちを得たいと願います。