聖書箇所 Ⅰサムエル記16:6~13
16:6 彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「きっと、【主】の前にいるこの者が、主に油を注がれる者だ」と思った。
16:7 【主】はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」
16:8 エッサイはアビナダブを呼んで、サムエルの前に進ませた。サムエルは「この者も【主】は選んでおられない」と言った。
16:9 エッサイはシャンマを進ませたが、サムエルは「この者も【主】は選んでおられない」と言った。
16:10 エッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「【主】はこの者たちを選んでおられない。」
16:11 サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは言った。「まだ末の子が残っています。今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人を遣わして、連れて来なさい。その子が来るまで、私たちはここを離れないから。」
16:12 エッサイは人を遣わして、彼を連れて来させた。彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった。【主】は言われた。「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。」
16:13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。【主】の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰って行った。
説教要旨
本日より「主を前にしています(詩篇16:8)」と歌ったダビデ自身が主をどのようなお方として前にしていたのかをサムエル記から見ていきます。今日の箇所はダビデがやがて王になる召しを受けた箇所です。民は王政を求め、最初に立てられたサウル王は神への不従順を重ねました。罪を咎められても偽りを言い、家来のせいにし、「罪を犯しました」とは述べますが真の意味で神を畏れ罪を認め悲しんだのではなくその場を取り繕うための形式的なものでした。このような中で主はサムエルにベツレヘム人エッサイの息子たちの中に王を見出したと語られました。(v1)サムエルはベツレヘムへ行き、エッサイと彼の息子たちを祝宴に招きました。(v5)サムエルは長男エリアブを見て主に油を注がれる者だと思いましたが、主は「彼の容貌や背の高さを見てはならない。…人はうわべを見るが、主は心を見る(v7)」と語られました。エッサイは次々と七人の息子たちをサムエルの前に出しましたが、サムエルは「主はこの者たちを選んでおられない」としました。サムエルは他に子はいないかと尋ね、羊の番をしていた末っ子のダビデが連れてこられました。ダビデはこのような大切な場に呼ばれていなかったのです。父エッサイに重んじられておらず、兄たちからも疎んじられていました。(17:28~30)しかし、主は「さあ、彼に油を注げ。(v12)」と語られ、ダビデが王に召されました。
「人はうわべを見るが、主は心を見る(v7)」「うわべ(v7)」とは容貌や能力や知識などでしょう。「心(v7)」とは人の性格や性質や心に思うことを指しているのでなく、神との関係のことが言われているのです。主はご自身に信頼し従う心(魂)を見られるのです。さらに言うならば、神に従いたいと願いながらなしてしまう失敗や弱さを認め、「間違っていました」とする砕かれた心を見られるのです。神は失敗のないことを求められるのではありません。もしサウルが「アマレク人の家畜を惜しく思い聖絶しませんでした。主よ、御許しください」としたならば、神はサウル王を退けなかったでしょう。神は神に信頼する心、従順な心、失敗や弱さが出たならば神に謝る正直な心を見、そういう者を神の働きにお用いになるのです。
主に信頼する従順な魂、失敗や弱さを認める謙遜な魂ということをもう少し考えてみたいのです。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ 霊の砕かれた者を救われる(詩篇34:18)」日本人の謙遜は倫理的、主観的なものでしょう。自分から謙るということでしょう。聖書における謙遜は異なります。他によって低くされた(倒された)状態を表します。厳しい状況の中で低くされた状態、神以外のものに拠り頼むことができないことを知らされていく魂のことです。ですから「心砕く者」ではなく「心砕かれた者」です。ダビデは父や兄たちに疎んじられた孤独や羊を飼うにあたり獣に襲われる危険の中で主以外に拠り頼むことができるお方がないことを知らされ、主に信頼する従順な魂、謙遜な魂とせられていったのでしょう。ダビデは失敗がなかったわけではありません。後には大きな過ちを犯しました。しかし、彼は自分の罪を真実に認め、主の憐れみを求めました。主への信頼と従順と謙遜がダビデの生涯の土台でした。主はそうしたダビデの魂を見られ王に召し、主の働きにお用いになられたのです。
砕かれた魂を見られる主を私たちは前にしております。私たちは、うわべを見、求めるのではなく、苦難の中で砕かれた心、主に信頼する従順な魂であるのか、謙遜な魂であるのかを大切に見ていく者でありたいと願います。そして、私たちは、勿論苦しみからの解決や解放を願いますが、ただそれのみを願い求め、解決を焦るのではなく、そこで主が私たちを砕き、主への信頼と従順を深め、謙遜を深め、主の働きにお用いくださろうとしている時であることを覚え、主の御手に自らと今の状況をお委ねしていきたいと願います。「主は心を見る(v7)」