聖書箇所 Ⅰサムエル記23:1~6
23:1 「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています」と言って、ダビデに告げる者がいた。
23:2 ダビデは【主】に伺って言った。「行って、このペリシテ人たちを討つべきでしょうか。」【主】はダビデに言われた。「行け。ペリシテ人を討ち、ケイラを救え。」
23:3 ダビデの部下は彼に言った。「ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。」
23:4 ダビデはもう一度、【主】に伺った。すると【主】は答えられた。「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」
23:5 ダビデとその部下はケイラに行き、ペリシテ人と戦い、彼らの家畜を奪い返し、ペリシテ人を討って大損害を与えた。こうしてダビデはケイラの住民を救った。
23:6 アヒメレクの子エブヤタルは、ケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、エポデを携えていた。
説教要旨
サウル王からの逃亡中、ダビデはペリシテ人がケイラを攻め打ち場を略奪しているとの知らせを受けました。(v1)ケイラはユダ族の地。通常であれば近くにいたダビデは直ぐにでも同族のケイラを助けに行くところでした。でもサウル王からの逃亡の身であり、武器も十分持っておらず、ケイラを助けに行くことは自らの居場所をサウル王に明らかにすることでもありました。その一方でダビデはケイラを助ければ、穀倉豊かな地を拠点とし、群れの食事の心配がなくなるとの思いもあったでしょう。しかし祭司アヒメレクにおいての失敗の経験から食べ物を求めて良いかとの思いもあったでしょう。いずれにせよ複雑な事柄が絡み合っていました。しかし、この時のダビデは預言者ガドの言葉(22:5)によって主に立ち返っており、主との関係は近いものでした。ダビデは主に伺いました。(v2)御心を求める白紙の心で主に「どうでしょうか」と尋ねたのです。主はダビデの尋ねに「行き、ペリシテ人を討ち、ケイラを救へ(v2)」とお答えになられました。「私はほめたたえます。助言を下さる主を。実に夜ごとに内なる思いが私を教えます(詩篇16:7)」主はいつもの聖書通読の中で今の私の状況に応じて語られるお方です。ある時にははっきりとこれが道だこれに歩めと示されることがあるでしょう。ある時にはこちらではないかとの思いに次第に導かれていくことがあるでしょう。主に祈り、主が語りかけてくださる前提として、私たちが主に従っていることをサムエル記は示しています。サウル王も神に伺うことがありましたが(14:37、28:6)、主はお語りになられませんでした。しかし、主は主に従う者(失敗があれば正直に認め主に立ち返る者)の祈りを聞かれ、語りかけてくださるのです。
判断において主からのものであるのかそれとも自分の思いからのものであるのかを識別する二つのことが示されているでしょう。ダビデは主に伺い、主からケイラを救うように言われた後、家来から不安の言葉を聞きました。(v3)ダビデは家来の言葉をねじ伏せるようなことはしません。もう一度主に尋ねました。(v4)主にある自分の判断は大事にしますが、固執するものではありません。主からこう導かれたということがあって、そうではない言葉を人から言われた時に強い反発がある場合や御言葉を振りかざして自分の正しさを強く主張したいとの思いに溢れる場合はもう一度主の前に出る必要があるでしょう。判断において大切な第二のことは、その判断が神の国(神の働き)が前進することに繋がっているのかということです。ここでの主の御心はペリシテ人を討ちケイラを救うことであり、ケイラを拠点とすることではありませんでした。この自分の判断は神の国が前進していくことに繋がっているのか、神の聖なる愛が現されていくことに繋がっているのか、人を建て上げることに繋がっているのか、それとも自分の益や欲からくるものではないのかを吟味していきます。
ダビデは主に伺うことを生涯大切にしました。クリスチャンの幸いは主に祈ることができることです。ただ自分の思いや状況や人の言葉で判断するのではなく、自分ですべてを握りしめ思い煩うのでもなく、主の前に持っていくことができるのです。主の前で自分の思いを見ることができるのです。今受難節の時を過ごし、この朝聖餐の恵みに与ります。主イエスは私たちを愛し、私たちの罪の身代わりに十字架で死なれ、死の中から復活され、すべての罪を赦し、私たちと伴い、私たちを守り建て上げてくださる羊飼いです。羊は羊飼いの声を知っています。(ヨハネ10:4)主に従い、主の前に自分の迷いや葛藤をそのまま持っていき、主の語りかけに聴きましょう。自分が主にあってなした判断に人の言葉が語られる時に自分は冷静であるのか。動機はどうであるのか。祈りの中で吟味し御言葉に聴き歩んでいきましょう。その歩みはダビデがそうであったように彷徨っているようで主の守りの中に置かれていくのです。(v13、v14)