聖書箇所 Ⅰサムエル記30:21~25
30:21 ダビデは、疲れてダビデについて来ることができずにベソル川のほとりにとどまっていた二百人の者のところに来た。彼らは、ダビデと彼に従った者たちを迎えに出て来た。ダビデは、この人たちに近づいて彼らの安否を尋ねた。
30:22 ダビデと一緒に行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に言った。「彼らは一緒に行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物は、分けてやるわけにはいかない。ただ、それぞれ自分の妻と子どもを連れて行くがよい。」
30:23 ダビデは言った。「兄弟たちよ。【主】が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。
30:24 だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。ともに同じく分け合わなければならない。」
30:25 その日以来、ダビデはこれをイスラエルの掟とし、定めとした。今日もそうである。
説教要旨
ダビデは主への信頼を失い、再びペリシテ人ガテの王アキシュの所に行き、ツィクラゲの町を与えられ、戦いに出掛けてはあたかもイスラエルを討っているように偽りを重ねました。遂にペリシテ人がイスラエルと戦うこととなり、ダビデの偽りが明らかにされようとした時、主の憐れみによりイスラエルとの戦いを免れ、ツィクラゲに戻りました。しかし、ダビデの宿営地はアマレク人に襲われ、家族や分捕り物が奪われていました。ダビデは絶望した家来たちに殺されそうになり、そこで再び主に立ち返り、主によって奮い立ち、アマレク人を六百人の家来と追いました。その途中二百人の家来は疲れのためベソル川を渡ることができませんでした。しかし主の恵みにより分捕り物を取り戻し、さらに戦勝品を得たのです。
ダビデは、その後、疲れてついて来ることができずにベソル川のほとりにとどまっていた二百人の者の所に来て、彼らに近づき安否を尋ねました。(v21)戦いに出た四百人の内のある者たちは戦いに参加できなかった二百人の者たちに妻や子どもたちは戻すが分捕り物は分けてやるわけにはいかないと口々に言ったのです。しかし、ダビデは彼らに戦いに参加した者もとどまった者も公平な分配をするよう命じました。(v23~v24)ダビデは言わば「恵み」をもって対応しました。ダビデは「恵み深い者」でした。「恵み」とは値しない者に注がれる愛の顧みです。一方戦いに行かなかった者には分捕り物を渡せないとした者たちは、恵み深い者ではありませんでした。いわば「報い」の考えでした。「報い」の考え方の根っこにあったものは「われわれが取り戻した分捕り物(v22)」と述べていますが、「自分たちがした」ということでした。一方、ダビデは「主が私たちに下さった物(v23)」「主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ(v23)」と告げております。ダビデの人への恵み深さは、ダビデが主の恵み深さを痛感していたことにあったのです。ダビデはサウル王を怖れ、主への信頼を失い、ペリシテ人の地に逃げ、偽りを繰り返しました。しかし、イスラエルとの直接の戦いを免れることができました。アマレク人の襲撃を受けました。絶望した家来たちに殺されそうになりました。しかし、主に立ち返ることができました。アマレク人襲撃は主に立ち返るための主の愛の懲らしめでした。主がアマレク人を追うようにとの導きを与え、ともに戦いに出掛ける思いを民に起こし、一人のアマレク人の奴隷と出会い全く居所の分からないアマレク人のもとに導かれ、家族や奪われた分捕り物をすべて取り戻すことができただけではなく、戦勝品も得られたのです。主の恵み以外何ものでもありませんでした。
クリスチャンとは主の恵みに驚いている者です。教会の原理(基本的考え方)は恵みです。主の恵みが語られ、絶えず思い起こされ、イエス・キリストの十字架の死と復活によりもたされた救いの恵みを絶えず感謝し喜んでいるのです。教会の原理が恵みであるとは戒めることは一切ないのではなく、主がダビデにそうであったように愛の戒めも含まれます。主の恵みの反対は何か。「われわれが取り戻した分捕り物(v22)」自分の行ない、自分の奉仕、自分がなしたことに心が向けられていくことです。自分はこういうこともしている、こういう良い行ないをしている、しかしあの人はこうしていない。私たちは主の恵みという原点に立っていく、戻らされていく、浸っていくのです。それがクリスチャンの歩み、教会の歩みです。主の恵みに目を留め、主の恵みに生かされていくとき、主の恵みは不思議にも私たちの人の見方や人への思いを変えていきます。ちょっとした言い方や対応を変えていきます。責め裁くような眼差しや言い方が変わっていくのです。主は私たちを愛しておられます。主の恵みこそ教会が建て上げられていく原理であり、置かれたところにおける祝福の歩みの原理です。恵み深き主を前にし、恵み深い者とされていきたく願います。