聖書箇所 Ⅱサムエル記16:5~14
16:5 ダビデ王がバフリムまで来ると、見よ、サウルの家の一族の一人が、そこから出て来た。その名はゲラの子シムイで、盛んに呪いのことばを吐きながら出て来た。
16:6 彼は、ダビデとダビデ王のすべての家来たちに向かって石を投げつけた。兵たちと勇士たちはみな、王の右左にいた。
16:7 シムイは呪ってこう言った。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者よ。
16:8 【主】がサウルの家のすべての血に報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに対して。【主】は息子アブサロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいにあうのだ。おまえは血まみれの男なのだから。」
16:9 ツェルヤの子アビシャイが王に言った。「この死んだ犬めが、わが主君である王を呪ってよいものでしょうか。行って、あの首をはねさせてください。」
16:10 王は言った。「ツェルヤの息子たちよ。これは私のことで、あなたがたに何の関わりがあるのか。彼が呪うのは、【主】が彼に『ダビデを呪え』と言われたからだ。だれが彼に『おまえは、どうしてこういうことをするのだ』と言えるだろうか。」
16:11 ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の息子さえ、私のいのちを狙っている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。放っておきなさい。彼に呪わせなさい。【主】が彼に命じられたのだから。
16:12 おそらく、【主】は私の心をご覧になるだろう。そして【主】は今日の彼の呪いに代えて、私に良いことをもって報いてくださるだろう。」
16:13 ダビデとその部下たちは道を進んで行った。シムイは、山の中腹をダビデと並行して歩きながら、呪ったり、石を投げたり、土のちりをかけたりしていた。
16:14 王も、王とともに行った兵もみな、疲れたのでそこで一息ついた。
説教要旨
ダビデのバテ・シェバとの不倫の罪とウリヤ殺害の罪に対し神は「今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない(12:10)」と裁きを告げられました。この後ダビデの家には悲しみの出来事が続いていきました。その最大のものは息子アブシャロムの謀反だったでしょう。ダビデはエルサレムの王宮を離れ、都落ちし、逃亡しました。その途上、前の王サウル家の一族のシムイから激しい罵りを受けました。アブシャロムに謀反を起こされ、都落ちし、逃亡したことについて、シムイから「主がサウルの家のすべての血に報いたのだ(v8)」と罵られました。しかしそれは濡れ衣でした。家来アビシャイはシムイの罵りを我慢できず首をはねることを申し出ました。(v9)アビシャイの怒りの申し出に対し、ダビデはシムイの呪いをただシムイのものとしたのではなく、主がそのように命じたと告げました。背後に主の御手を見たのでした。バテ・シェバとの不倫の罪とウリヤ殺害の罪に対し神の裁きを受けているとしたのです。神の裁きを全身で受けるとしていたのです。まさに心砕かれた魂であったのです。それはこの出来事に限らず、自らの罪に対する裁きの苦しみを受けていく中でのダビデの姿でした。(15:25~26)主は確かにダビデのなした罪を裁かれておられます。しかし、それは単なる「裁き」ではなく、愛の「懲らしめ」でした。苦しみの中でダビデを取り扱われ、砕かれたへりくだった主に拠りすがる魂とせられているのです。私たちは自分の罪のゆえに刈り取る苦しみの中に置かれることがあるでしょう。全くそうではない苦しみの中に置かれることもあるでしょう。たとい自らの蒔いた種ゆえの苦しみであったとしても、主はただ裁きや怒りとして苦しみの中に置かれているのではありません。まして自らの罪とは関係のないものはそうです。主は愛の懲らしめとして苦しみの中に置き私たちを取り扱われ砕かれたへりくだった魂とせられます。私たちは苦しみの解決を祈っていきます。祈って良いのですし、祈るべきです。主の前に「なぜ?」「いつまで?」とも問います。でも同時にただ「問題」として扱わないで、即ちただ「解決」や「回答」を求めるのではなく、「神秘」として、即ち背後に主の御手があると、主のご計画があると主を静かに信頼して歩んでいきたいと願います。
そうした私たちの歩みにおいて、主はどうされておられるのでしょうか。主は私たちを見つめておられます。ヨブ記において苦難の中でヨブの主への信頼と従順を主は見つめておられました。でも、それだけでしょうか。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ(イザヤ63:8)」ダビデは蔑まれ、濡れ衣を着せられ、その中で主に信頼しました。このダビデの姿に私たちは御子イエス・キリストを見ます。イエス・キリストは十字架に架かられ、人々からバカにされ、罵られ、苦しまれ、忍ばれ、死なれました。そして、そのイエス・キリストは復活され、今私たちとともにおられます。主はダビデの苦しみをともに苦しみダビデと一歩一歩ともに進まれていたのではないでしょうか。(v13)苦しみの道、主の訓練の道にイエス・キリストご自身がともに歩んでおられます。家庭、学校や職場における苦しみのただ中に主はともに苦しみともにおられます。孤独のただ中に主はともにおられともに歩いておられます。苦しみの時には時間が長く感じます。しかし、その一時一時、主はともにおられます。苦しみの中で弱さが出て失敗することがあります。でも、主イエス・キリストはともにおられます。
苦しみの背後に主の御手、主のご計画があります。その御言葉の約束に立ち留まらせていただきましょう。そして苦しみのただ中に主イエスはともに苦しみ、ともにおられ、ともに歩んでくださっておられます。主イエスを仰ぎ見主イエスに拠りすがりましょう。聖餐の恵みに与り、ともに歩みともに苦しんでくださっておられる主イエス・キリストを覚え、主イエス・キリストの前に自分を置いて主の慰めと御力を受けていきましょう。