聖書箇所
5:1 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
5:3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
説教要旨
「喜びに生きる」を覚えローマ書に聴いております。パウロは3章と4章で「義認」を語り、5章12節より「聖化・栄化」を語っていくにあたり、5章1節~11節はその準備をしております。信仰の歩みを総括しています。クリスチャンの人生観を告げています。義と認められた結果(祝福)を三つ記しています。第一は「神との平和を持っています(v1)」「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただき(v10)」今神との平和を持っています。第二は「…今立っているこの恵みに導き入れられました(v2)」神の恵みに大胆に近づくことができるようにされました。(ヘブル4:16)神は無尽蔵の恵み、祝福に満ちたお方です。神は私たちを祝福しようとされています。その恵みとは私たちを聖める力、試練の中での知恵、苦難の中での慰めと励まし、神の栄光が現されるための勇気や力、人を愛する愛、教会に仕えていく力、福音を宣べ伝えていく力などです。主の恵みの御座に大胆に近づき、おりにかなった助けを得ることができるようにされたのです。第三は「神の栄光にあずかる望みを喜んでいます(v2)」終わりの日に与えられる神の祝福です。神と直接顔と顔を合わせることです。罪から全く解放された栄光の体が与えられることです。
パウロは神の栄光にあずかる望みを喜んでいる、それだけではなく苦難さえも喜んでいると告げ理由を述べます。「苦難が忍耐を生み出し(v3)」我慢は自分で耐え忍ぶことですが、忍耐は主に祈りながら主を待ち望むことです。苦難は主を待ち望むこと、主の近くを歩むことを生み出します。「忍耐が練られた品性を生み出し(v4)」苦難の中で主を待ち望み主の近くを歩む、主に体当りするように祈る、そこに練られた品性が生み出されていくのです。「練られた品性が希望を生み出す(v4)」「希望(v4)」との言葉は「神の栄光にあずかる望み(v2)」の「望み(v2)」と同じ言葉です。苦難が用いられて神の栄光にあずかる望みへと導くのです。ですから神の栄光にあずかる望みを喜ぶだけではなく、それに導く苦難さえも喜ぶと告げているのです。「この希望は失望に終わることがありません(v5)」苦難が神の栄光にあずかることへと導いていくのか、どこにその根拠はあるのかと思うことがあります。その根拠は「神の愛(v5)」です。御子イエス・キリストの十字架に表された神の愛が今も注がれているのです。(v6~v8)だから神の栄光にあずかることは確実です。神の愛が注がれているのは、私たちに与えられた聖霊の働きによるのです。
適用を考えていきます。義と認められ与えられた神との関係の平和は私たちの罪によって失われないのです。何故なら神との平和は私たちの行為によらず、ただイエス・キリストの贖いのゆえだからです。また逆のようなことを言いますが、神との平和を持っている者として神との平和を保ち深めていきましょう。神に感謝し、神に従い、罪を正直に告白していきましょう。また、大胆に主の恵みの御座に近づいていきましょう。どんな小さなことでも祈り、今抱えている苦しみや罪の悩みについて祈り、神から恵みを、祝福を、おりにかなった助けをいただいていきましょう。そして、苦難が練られた品性を生み出し、やがては神の栄光にあずかることを覚えていきましょう。苦難の中で主イエスの十字架を仰ぎ、黙想し、そこに表された神の愛を確信し、今神は私を練り聖め、神の栄光にあずかる道へと導いておられるとの信頼に立っていきましょう。天の父に祈り、聖霊によって神の愛が注がれていることを分からせていただきましょう。
義と認められたゆえに今神との平和が与えられ、神から無尽蔵の祝福をいただくことができ、神の愛の中で苦難を通して聖められ、やがて神の栄光に与らせてくださいます。「私たちは神を喜んでいます(v11)」この神を大いに喜んでいきましょう。それが信仰者の歩み、信仰者の人生観、クリスチャンの幸いに生きることです。