聖書箇所 ローマ8:14~17
8:14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
8:16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
8:17 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。
説教要旨
「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです(v14)」私たちはイエス・キリストを信じたその時に罪赦され、神の子どもとされました。(ヨハネ1:12)そして神の御心に従いイエス・キリストに似る者とせられていく聖化の歩みへと導かれています。しかし、パウロはここで聖化を告げる中で「神の子ども」のことを取り上げました。パウロは確認したいことがありました。聖化の歩みにおける「意識」です。聖化の歩みは神を怖がって神に捨てられてしまう恐怖心からではなく、神への愛と信頼からのものであるということです。当時「奴隷(v15)」は働きによってのみ評価され、十分な働きがなければ主人から捨てられる恐怖がありました。一方、養子とせられた「子(v15)」は父親に存在そのものを喜ばれ、切り離されるのではとの恐れから父親に仕え良い行ないをするのではなく、愛され受け入れられている喜びから自ら進んで父親に仕え喜ばれる行ないをしました。クリスチャンはびくびくして、不承不承、神の御心に従って歩んでいく聖化の歩みではありません。神に愛されていることを覚え、その神への信頼と敬いの中での聖化の歩みです。「アバ(v15)」とは、アラム語で家庭の中で幼子が呼ぶ「父ちゃん」との言葉です。恐怖心はないのです。父ちゃんは自分を愛してくれている、大切に思ってくれている、守ってくれているんだとの敬い、信頼、愛が表された呼びかけです。聖化の歩みにおける私たちの意識はとても大事です。
続いてパウロはただ私たちがそのような意識を持つだけではなく、聖霊が私たちに神の子どもであるとの確信を与えてくださると告げました。(v16)アバと神を呼び祈るときに、聖霊は私たちに「神の子どもとされている」「神に愛されている」との確信、自覚を与えてくださるのです。神に従い良い行ないをしているから、その確信をいただくのではありません。祈っている事柄が自分の願いどおりになっているのでその確信が与えられるのではありません。主の御旨に生きられない弱さがある。苦しみの状況が続いている。でも、神は私たちを「神の子どもとし、愛してくださっているのだ」と、聖霊は私たちの霊に向かって証しし、神に愛されていることの確信を与えてくださるのです。
神の子どもであるとは、神の相続人です。(v17)「栄光をともに受ける(v17)」救いの完成において神とまみえ、一切の罪から解放された栄光のからだの復活に与るのです。今も神との交わりは私たちに喜び、潤い、力をもたらしています。今も神の御心に生きる歩みは私たちに喜びをもたらしています。まして神の栄光に与る時、神との完全な交わりの中に置かれ、罪から全く解放されるのです。何という喜び、何という自由でしょうか。但し、その栄光に与るためには「苦難をともにしている(v17)」とあります。「苦難(v17)」とは、人生の重荷や課題というよりも、主に従っていく「苦難」「闘い」を表しています。私たちの救い主イエス・キリストは神の御心に従順に従い、十字架の死にまでも従われ、十字架の苦しみを経て栄光の復活に与りました。私たちは罪との闘い、主の御心に従っていく闘いがあります。古い肉の性質に従う方が楽でしょう。でも一歩一歩主の御心に従っていきます。主の教会に仕え主の教会を建て上げていくことには苦難があります。忍耐を必要とします。人知れずの祈りや奉仕があります。(コロサイ1:24、1:28~29)でも主の教会にお仕えしていきます。但し、苦難において主に従っていくのは、そうしなければ神が私たちを見捨ててしまうからではなく、父なる神に愛された神の子どもとしての神への信頼と敬いからです。イエス・キリストは十字架を前にする最も苦しみのゲッセマネの園の祈りにおいて神を「アバ」と呼ばれました。(マルコ14:36)恩師の吉持章師は常々おっしゃっておられました。クリスチャンは「ほほえみつつ従う」歩みであると。