聖書箇所 ネヘミヤ記8:9~12
8:9 総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全体に向かって言った。「今日は、あなたがたの神、【主】にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。
8:10 さらに、彼は彼らに言った。「行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。【主】を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」
8:11 レビ人たちも、民全体を静めながら言った。「静まりなさい。今日は聖なる日だから。悲しんではならない。」
8:12 こうして、民はみな帰って行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。教えられたことを理解したからである。
説教要旨
「クリスチャンの幸いに生きる」との年間標語を覚え「喜びに生きる」ということをローマ書に聴いてきました。本日はネヘミヤ記から「主を喜ぶ」ことを見、「喜びに生きる」を区切りにしたいと考えております。南ユダ王国は紀元前586年バビロニアに滅ぼされ、捕囚に連れて行かれました。その後ペルシャがバビロニアを倒し、ペルシャの王キュロスは紀元前538年イスラエルの民を解放し帰還させました。第一の帰還はゼルバベルを中心に神殿再建がなされました。その後民は再び堕落し、第二の帰還は紀元前458年に祭司であり学者であったエズラが律法を教え民を主に立ち返らせました。第三の帰還はペルシャ王アルタシャスタⅠ世(紀元前465年 ~424年)に献酌官として仕えていたネヘミヤにより城壁再建がなされました。ネヘミヤは様々な妨害がありながらも城壁を52日間で再建しました。(6:15)城壁再建後、なされたことは奉献式ではありませんでした。特別な安息日である第七の月の一日に民は集まり主を礼拝し神の言葉が語られ神の言葉が聴かれたのです。(v1~v3)民は皆泣きました。過去と今における神への高ぶりの罪が示されたのです。罪認識が与えられ、悔い改めたのです。私たちは洗礼を受けた時、神を神とせず自分中心に歩んでいた罪を認め、神に悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じました。救いのための悔い改めは一度ですが、信仰の歩みにおける悔い改めは絶えずなされていきます。ここでのイスラエルの民がそうであったように、神が呼び集めてくださる主日ごとの礼拝において、そして日々の歩みにおいても御言葉が語られ聴かれ、私たちは魂を探られ自分の神との関係そのものが問われるのです。神の言葉は悔い改めをもたらしていきます。それは本当に幸いなことです。神は私たちの真の祝福を願われています。罪の認識と悔い改めはクリスチャン生活において神との関係の回復の第一歩、祝福の歩みの土台です。
罪を悲しむイスラエルの民に神の憐れみと恵みが示されました。「今日は、あなたがたの神、主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない(v9)」神に背き、滅ぼされ捨て去られてもよいにも関わらず、神は民を憐れみ恵みの言葉が語られたのです。主の日において、神の憐れみと恵みが語られます。主の日は、神の救いの御業を讃え喜ぶ日です。御言葉が語られ説教がなされ、イエス・キリストが十字架において成し遂げられた神の救いの御業を仰ぎ、感謝し、喜びます。聖餐によって、イエス・キリストが十字架において成し遂げられた神の救いの御業を仰ぎ、感謝し、喜びます。
「主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ(v10)」主を喜ぶことは私たちに力をもたらします。主の御心に生きていく力を与えます。但し「主の祝福を喜ぶことはあなたがたの力である」と言われておりません。「主が良い状況を備えてくださったことを喜ぶことはあなたがたの力である」とも言われていません。主ご自身を喜ぶこと、主の救いそのものを喜ぶことは力であると言われています。もう少し具体的にはどういうことでしょうか。礼拝の中で主の救いの御業を感謝し主をほめたたえます。日々の祈りの中で「主が私たちを愛し、救いの御業を成し遂げ、罪を赦し、恵みを与えてくださっていることを感謝します」と祈ります。祈りには願いも、嘆きも、罪の告白もあります。でも、それだけではない。主を喜ぶ、主の救いそのものを喜ぶ、そこに力が与えられていくのです。「力」とは「砦」とも訳され「保護、守り」を表します。主を、主の救いを喜んでいる時に私たちは罪やサタンの働きから守られます。主の守りの中に置かれていくのです。状況→力→喜ぶではなく、喜ぶ→力→状況です。私たちは悔い改め神を畏れ、神の救いの御業を喜び、神の力をいただいて歩んでいきましょう。「私の幸いは、あなたのほかにはありません(詩篇16:2)」