聖書箇所 ルカ2:17~19
2:17 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。
2:18 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。
2:19 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
説教要旨
この御言葉はクリスマスの時期に開かれる箇所です。神は救い主誕生の知らせを、当時の支配国ローマ皇帝勅令の住民登録の対象にもならなかった羊飼いに真っ先に御使いを通して告げられました。羊飼いはその知らせ受け、ベツレヘムに急いで行き、「マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当て(v16)」、「この幼子について自分たちに告げられたことを知らせ(v17)」ました。この赤子は神が長い間約束されてきた救い主であると。家畜の餌箱に寝かされている、即ち驚くべきほどの貧しさの中で生まれたこのお方こそ、誰にも顧みられず悲しむ私たち羊飼いたちを救う救い主のしるしであると。神は御使いにより救い主誕生の知らせを羊飼いたちに告げ、羊飼いたちはその知らせ(出来事(v15))を人々に語りました。神は私たちに語りかけてくださるお方です。神は私たちに「聖書」を通して、「人」や「出来事」を通してお語りになられます。
羊飼いたちを通しての神の語りかけに対する応答がv18とv19で記されています。人々は不思議に思った(v18)一方で「マリアは、これらのことをすべて心に納めて、思い巡らしていた(v19)」のです。「これらのことをすべて」とは、羊飼いの言葉だけではなく、1:26~の受胎告知、マリア自身が神の御使いから聞いたこと、男の人を知らないのに聖霊によって身ごもるということ、生まれる子は神の子と呼ばれるということ。1:39~の親類エリサベツのところに行き、「あなたは女の中で最も祝福された方(1:42)」と言われ「主の母(1:43)」と呼ばれたこと。さらにはローマ皇帝から住民登録をせよとの勅令が出て、登録のために婚約者ヨセフと一緒にガリラヤ地方のナザレから百数十キロ離れたユダヤ地方のダビデの町ベツレヘムに行き、思いがけなく月が満ちて男子を産んだこと(2:6)、その子を布にくるんで飼い葉おけに寝かせたこと(2:7)、そして羊飼いたちの言葉。「これらのことをすべて(v19)」を心に納めて、思い巡らしていたのでしょう。「納めて(v19)」との言葉は「完全に保つ」との意味で、「心の奥深くにとどめていた」ということです。マリアは神の言葉、出来事、人の言葉を心の奥深くで保っていたのです。どのように保っていたのか。「思いを巡らしていた(v19)」この言葉は、もともと「二つのものを一緒に投げる」との意味で他の聖書の訳では「考え合わせる」と訳されています。受胎告知の言葉、エリサベツの言葉、ダビデの町ベツレヘムでの思いがけない出産、飼い葉おけに寝かすことになったこと、羊飼いの言葉を心の中に納め、考え合わせていた、引き合わせていたのです。「思い煩う」とは異なります。思い煩うは自分で抱え自分の内のみで心がいろいろなことに裂かれることを表しますが、「思い巡らす」は神に尋ねている、神に信頼し考えることです。こうしたマリアは少しずつ神の救いのご計画が明らかにされ、イエス・キリストの十字架は神の救いの御業であることを知り、イエスは真の救い主であるとの信仰の育みと導きをいただき、主の働きに用いられていったのです。(使徒1:14参照)
聖書の言葉、出来事、人の言葉において理解できないことや受け入れ難いことがあり、時にはその中で痛み悲しみ傷つきます。でも、分からないまま、受け入れ難いまままず心の中に入れておき、いったいどういうことなのかと神の前で考え合わせる歩みをなしていくことは祈りの歩みです。確かなことは、神は私たちの天の父であり、私たちを愛しておられ、私たちを神の子どもとして導き、私たちをご自身の御旨にかなう者となるようすべてのことを働かせて育み、神のご栄光のためにお用いくださっておられるのです。神の愛の摂理の中で生かされております。「分からないポケット」を私たちの内に作っておき、その中に入れましょう。入れておきましょう。神は私たちを一歩一歩導かれ、御心を示し、深く造り変え、真の祝福の内を歩ませてくださるのです。