聖書箇所 イザヤ43:4
43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。
説教要旨 斎藤成美師
Ⅰ「あなたは高価で尊い」と神は言われます。私たちは汚れ切った人間ですのに、神はなぜこんなことを言われるのでしょうか。鍵は「私の目には」です。「神が見て」とあります。神が見ているのは何でしょうか。神の人間創造の時しかないでしょう。確かに神が人間を造られた時にはすべての人が「非常に良かった」のです。あなた自身が神の創造の中に全人生がイメージされた時、それはそれは美しく、正義に富み、神の愛に似せられた素晴らしい存在でした。全能の神は、創造された純粋なあなたと同時に罪に落ちてしまったあなたを見られる。そして、本来の純粋な人間の姿を見られて「高価で尊い」と言われるのです。と同時に、神は神の似姿が落ちてしまったことに悔しさをいっぱいにしておられます。
II そこでその神は、とんでもないことをなさいます。「人を代わりにする」計画を立てたのです。「一人の人」は単数でアダムという言葉です。言うまでもないことですが、「神の御子」を指します。(代わりに)「した」=動詞、単数ですが、特色は「未完了形」で書かれていることです。簡単に言うと「まだ終わっていない」ということです。イザヤが言うには、神の身代わりの救いはまだ開かれているということ。イザヤ時代にも新約に入っても。神は、ご自分の御子を犠牲にしてまでも人間を救い出す計画を立てておられたのです。十字架上で、神の御子イエス・キリストは、大切な言葉を七つほど発せられたのですが、午後3時頃になって体力が弱り果てて行く中で全身の力をふりしぼって叫びました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。あなたとなった(代わりとなった)神の御子が叫ばれたのです。どのくらい経過したかわかりませんが、次に私たちの代わりぬしは細々と言われました。「わたしは渇く」と。肉体は日照りに照らせ渇き、心の中は神に捨てられて行く虚しい渇きの中に、魂は捨てられた虚しさを覚え、地獄へと落とされていきました。この時、代わりぬしは「完了した」と言われました。人間の救いは成就しました。この文章は、完了形受動態。すなわち、主イエス・キリストのこの言葉で、イザヤの予言は完了し、十字架の救いのわざは完了し、完成したのでした。そして、ご自分を父なる神に委ね、息引き取りました。
Ⅲ 神の御子の出現・クリスマス。この十字架は偉大で、人間の救いを完成させています。しかし、十字架以後の人類の多くは、福音を受け入れませんでした。神の御子を宿すのだから、マリヤはきよくなり神となったのだと「聖母」と呼ばれ間違いました。十字架につけたのはユダヤ人だと、これを政治界に持っていき、ナチスによるユダヤ人虐殺となりました。今、イスラエルとハマスの戦争が続きます。旧約聖書にイスラエルが選民となった事実を見る時、この争いをどう見たらいいのでしょうか。この解決は十字架にあります。十字架で全ては完了したのです。選民制度は終わったのです。新約聖書の世界は何でしょうか。「愛と赦し」です。新約に生きる私たちは、謙遜になり、互いに理解と赦し、助け合いと自立、すなわち「愛の世界」に生きるのです。