聖書箇所 ヨハネ1:1~5、9、14
1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
説教要旨
守谷聖書教会のキャンドルサービスにようこそお越しくださいました。ろうそくの灯火の中、救い主イエス・キリストのご降誕をご一緒にお祝いすることができ心より感謝いたします。しばしの時、主イエスの十二弟子のひとりであった使徒ヨハネが記した福音書の御言葉に聴いていきます。ヨハネ福音書は、紀元90年頃に記されたものです。ヨハネの福音書の書き出しは大変良く知られています。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった(v1)」イエス・キリストを「ことば」として告げております。イエス・キリストは天地創造の初めからおられ、神とともにおられ、神であったと告げました。イエス・キリストの神性、イエス・キリストが神のひとり子であられたことが語られています。続いてイエス・キリストにはいのちがある、イエス・キリストは人の光であると語られています。(v4~v5)
そのいのちなる、光なる神の御子イエス・キリストが世に来たのです。「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた(v9)」「世(v9)」とは神に造られた世界と私たち、しかし神に背いている世界と私たちです。それを「闇」としています。世界は暗闇に覆われているのではないでしょうか。今この時も神に造られた大切な命が戦争の中で失われています。人間の愚かさ、醜さ、恐ろしさを覚えます。しかし、それはただどこかの国というだけではありません。私たち自身も愛すべき人を愛せない闇、理解してもらえない寂しさや孤独の闇があります。しかし、イエス・キリストは私たちの闇を照らす人の光としてこの地に来てくださったのです。どのように来てくださったのでしょうか。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた(v14)」父のふところにおられたひとり子の神が人となって私たちの間に住まわれたのです。「私たちは、この方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である(v14)」「栄光(v14)」とはひとり子なる神としての栄光です。それはわずかなパンから多くの人々を養ったことや病に患っていた人を癒されたことなどの奇跡を示しているでしょう。でもヨハネ福音書において「栄光」の中心は、イエス・キリストの十字架の死を表していました。(12:23~24)イエス・キリストは十字架にお架かりになられ、「渇く」と仰せられました。神とともにあったお方が、人となって人である私たちの罪の身代わりに神に捨てられたのです。そして「完了した」と言われました。イエス・キリストは、自分のいのちを捨てられ、私たちの闇を照らし、私たちに神との交わりであるいのちをもたらす救いの御業を成し遂げてくださるために、この地に来てくださったのです。
「照らす」というと、闇を上から「太陽」のように照らすとのイメージかもしれません。しかし「光は闇の中に輝いている(v5)」「ことばは、私たちの間に住まわれた(v14)」のです。光が上から照らす、ルカの福音書ではそのように記されています。しかし、このヨハネ福音書では、太陽のように上から照らす光ではない、ちょうど今日この会堂の中で「ろうそく」が灯っているように、私たちのただ中におられ私たちを照らしてくださる光です。私たちの悲しみを知り痛みを知りそしてその暗闇の中で慰めを与え望みを与え力を与えてくださる人の光です。「闇はこれに打ち勝たなかった(v5)」闇がどんなに深くても、闇は救い主、人の光に打ち勝つことができないのです。後にヨハネは迫害によりパトモス島に島流しに会い、そこで幻を見せられて主イエスの言葉を記しました。「七つの金の燭台の間を歩く方が、こう言われる。「わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている」(ヨハネ黙示録2:1~2)」主イエスは今も教会の間、私たちの間を歩いていてくださいます。そして、今日の箇所ではすべて過去形ですが、「光は闇の中に輝いている(v5)」と現在形で記されています。私たちの間に住まわれ歩かれ、私たちの闇の中に輝いておられるイエス・キリストのご降誕を心よりお祝いしましょう。