聖書箇所 使徒2:40~41
2:40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
2:41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
説教要旨
「バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた(使徒2:41)」とあります。「教会」という言葉は出てきませんが、イエス・キリストの教会が正式に誕生したと言えるでしょう。本日より「教会」を覚え数回にわたって御言葉に聴いていきます。「教会」との言葉は、ギリシャ語では「エクレシア」で、「集会」とも訳されています。「集まり」ということです。教会は目に見える「建物」ではなく、「集まり」そのものです。
では、教会はどのような「集まり」なのでしょうか?ペテロは「罪から救われない」とは告げず、「この曲がった時代から救われなさい(v40)」と告げました。「曲がった時代(v40)」とは、神を認めず、自分の思いのままに生きるこの「世」です。(使徒14:16)救い主イエス・キリストを退けるこの「世」です。(ルカ17:25)神は、神を認めず、救い主を退けるこの世から私たちを救い出してくださいました。教会はその者の集まりです。神はどのように救い出し集めてくださったのでしょうか。神の側から呼んでくださいました。(v39)私たちの側の功のゆえでは決してありません。神の一方的な恵みによりました。御子の命の代価をもってこの世から救い出してくださったのです。(使徒20:28)(ガラテヤ1:4)
使徒信条において「我は聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と告白します。「聖」が使われています。「聖」とは、神がご自身のために取り分けられたことを意味します。教会は聖なる神の民です。神の聖なる民に、神がお命じになられていることは、旧約聖書も新約聖書も同じです。「聖なるものとなりなさい」です。(レビ記19:2、ローマ12:2、Ⅰペテロ1:15参照)それは、世と調子を合わせず、神の御心に従って歩むことです。神が喜ばれることを選択しなし、神が悲しまれることを選択せずなさずに生きていくことです。具体的には十戒に生きていくことです。十戒は神の民を真の自由へと導く道しるべです。神の主権を拒み、善悪の知識の木の実を食べた私たち人間は、自分の思いのままに生きることを自由としますが、かえって罪の奴隷となっています。罪の世から救い出され、十戒の神の御心に聖霊によって生きることが真の自由をもたらすのです。神の御心に生きることは私たちを束縛するのではなく、真の自由の中に歩ませます。主イエスが「自分のいのちを得ようと思う者はかえってそれを失い、わたしのために自分のいのちを捨てる者は生きる」と仰せられたのはそのことです。私たちはこの世の中で歩み、自分のうちに生じてくる様々な思いがあります。また、この世の価値観があります。でも、私たちはただ自分の思いのままに生きず、世の価値観では生きません。神の言葉に聴き、信頼し、従っていきます。そこに真の自由と喜びがあるのです。私たちが世の中で聖なる歩みをなしていく要は十戒が示す通り主日礼拝です。神を礼拝し(第一戒~第三戒)、世の中で歩むこと(第五戒~第十戒)を繋ぎ合わせているのが第四戒の安息日規定です。私たちはこの世での一週間の旅路を歩み、疲れ、渇き、痛みを覚え礼拝に出席します。いいえ、神ご自身がそのような私たちの名を呼び、招き、この世から集めてくださいます。そして神は御言葉が語られ聴かれることにおいて私たちと交わり、この世にはない神ご自身の祝福を私たちに注いでくださいます。神ご自身の愛、喜び、平安、神の御心に生きる力を注ぎ、「曲がった時代(v40)」に私たちを再び遣わしてくださるのです。
神は私たちを曲がった時代から恵みによって救い出し集め、そして今日神は名を呼び私たちを礼拝に集めてくださいました。この時、主の前に重荷をおろしましょう。御言葉に御声を聴き主を仰ぎ見ましょう。主と交わり神の御心に生きる神の祝福を豊かに受け再びこの世に、私たちの持ち場に遣わされていきましょう。ただただ神の恵みによって世のものではなく、神のものとされました。その恵みを心より感謝します。