聖書箇所 Ⅰヨハネ1:1~4
1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。
説教要旨
初代教会は「使徒たちの教え」に続いて「交わり」に専念していました。(使徒2:42) 「交わり(コイノニア)」とは「ともに一つのものに与る」と「分かち合う(与え合う)」との意味です。教会はともに何に与っていたのでしょうか?Ⅰヨハネの手紙の御言葉に聴いていきます。この手紙が記された背景には、グノーシス主義という誤った教えが教会に入っていました。グノーシス主義とは、二元論の立場を取り、物質は悪、霊は善であるとの考えでした。ですからイエス・キリストが肉体をもって来られた受肉を否定しました。ヨハネは、福音書もそうですが、この手紙も特徴的な書き方で始めています。「いのちのことば(v1)」はイエス・キリストを表しております。イエス・キリストはどのようなお方であられたのでしょうか。「初めからあったもの(v1)」神の創造の初めから今にいたるまで継続してずっと存在しておられた方です。「私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの(v1)」ヨハネが直に耳で聞き、目で見、この手紙を記した当時でも聞き、見たことがはっきりと心に残っている方でした。「じっと見つめ、自分の手でさわったもの(v1)」ヨハネは十字架で死なれ復活された主イエスをじっと見つめ、自分の手で触りました。ヨハネは最後の晩餐の席でイエスの「胸元に寄りかかった」のです。(ヨハネ13:23、25)イエス・キリストは何かの憧れや人間が生み出した想像上の人物ではなく、歴史的存在でした。「このいのちが現れました(v2)」御父とともにおられた永遠なる神の御子が歴史的存在としてこの地に来られたのです。
ヨハネは、いのちのことば、イエス・キリストを伝えました。(v2、v3)伝える目的は、直接イエス・キリストを目で見たことも、手で触れたこともないこの手紙の読者が「私たちと交わりを持つようになるため(v3)」、ヨハネたちと互いの交わりを持つようになるためでした。そして、その「交わり」とは、「御父また御子イエス・キリストとの交わりです(v3)」と告げました。ここに「交わり(コイノニア)」の本質が語られています。私たちは「交わり」というと「互いの交わり」を思います。でも、聖書が告げる「交わり」の本質は、互いの交わりをまず指すのではありません。「交わり(コイノニア)」とは、ともに一つのものに与るとの意味です。ともにいのちなるイエス・キリストに与る交わりです。御父また御子イエス・キリストとの交わりにともに与る交わりです。そしてそれによって生まれる互いの交わりです。「親しくなりましょう」「親睦会を開きましょう」それは悪い事ではないのですが、御子のいのちに与る交わり、御父と御子との交わりなくして、どんなに教会の兄弟姉妹が知り合おうとしても、そこには真の教会の交わりは深められません。では、イエス・キリストのいのちにともに与る、御父と御子の交わりにともに与るということは具体的にはどういうことでしょうか。「いのちのことば(v1)」と言われ、伝えるのは「交わりをもつようになるため(v3)」と言われています。イエス・キリストの御言葉が語られ聴かれていく、そこにイエス・キリストのいのちにともに与り、御父と御子との交わりにともに与り、そして教会の交わりが生まれ深められていくのです。
その交わりは「喜び」です。(v4)「喜び(v4)」は、神の国の喜びです。ともに聖書を学び、信仰が分かち合われる中で得られる喜びがあります。祈られ祈る祈り合う中で得られる喜びがあります。そして、その「喜び」は教会の交わりの喜びに留まりません。「満ちあふれる(v4)」のです。私たち一人ひとりが遣わされていく場である家や職場や学校において主と教会の交わりの喜びの中に生かされつつ歩み、その遣わされている場を喜びの場としていくのです。
御言葉に聴き、ヨハネが主イエスの胸元に寄りかかったように、イエス・キリストのいのちにともに与り、それを源とする教会の交わりに支えられ、神の下さる喜びを受けて、この週もこの世の戦いに出ていきましょう。