聖書メッセージ『試練からの脱出』(Ⅰコリント10:13)

聖書箇所  Ⅰコリント10:13

10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。      

        

説教要旨 斎藤成美師

画家であり詩人である星野富弘氏が召天されました。首から下が全然動かない、筆を口にくわえ絵を描き、詩を加える芸術はみごとで、世界中にあかしをされた主の器でした。生涯試練続きのような生活から、みごとな作品を産み出すよう、聖霊は導かれました。

 

試練は忍耐するしかないと言われるが、どちらも私たちにとっては難しいことです。しかし、聖書は「耐えられない試練にあわせることはない」とはっきり言っています。「試練」とは、聖書言語のギリシャ語で「誘惑」と同じ言葉で「ペイラスモス」(試し)です。すなわち、主語によって変わります。神が主語であるは、私たちにとって「試練」となり、サタンが主語であれば、私たちとって「誘惑」となります。新約聖書には名詞で21回出て来ます。「誘惑」と訳されているのは5回、「試練」と訳されているのは16回。神は私たちを試練することにより、私たちの信仰が練られ強められるのです。期末試験のようなものです。結果は「喜びの確信」。サタンが私たちを試す時は、目的は私たちを失望、破滅させることです。サタンはきよい天使のように装って私たちを試します。「あなたの信仰はだめじゃないか。」「それでもクリスチャンか?」。また、サタンは強い魅力をもって誘惑して来ます。アダムとエバの堕落を私たちはよく知っています。現実には、サタンが絶え間なく人間を「攻撃か誘惑」をして来ます。「空中の権威を持つ支配者」(エペソ2:1-2)として存在しているからです。しかし、ご自分の民を守る神は、サタンの誘惑、攻撃を選択し、神が許可なさったもののみが、私たちが試練として経験するのです。だから、「耐えられない試練にあわせることはない」と言うのです。神は私たちが経験する試練を耐えられると判断していて下さっているのです。神の私たちに対する信頼です。神の守りがあることを覚えたいのです。神は、サタンの攻撃から私たちを守っておられますから、私たちに届かずに済んでいる攻撃や試練もあるのです。大きな守りです。

 

実に神は真実なお方です。ヤコブ1:13-18によると、神は人を誘惑したり、悪いものを下さるお方ではないということが、はっきりと書かれてあります。神がくださるのは全て良いものです。神も苦しみや悪いものを下さると思い違いしている人がいますが、思い違いをしてはいけません。神は良きもののみを下さるのです。罪赦され神の子とされた私たちは、神の良いものに満されているのです。サタンが終わりなく迷わしを与えるから、神も私たちに悪いものも下さると思いがちですが、それ正にサタンの目的であります。神の下さるのは良きものだけです。ですから、全てが喜びと感謝の道なのです。そして、神が許可したもののみを、試練として私たちは受けているのです。これは、私たちの大きな慰めです。私たちは、その中で悔い改めるべきものを告白し、きよめられるのです。

 

私たちは、「もうだめだ!」と叫ぶ時がありますが、神は「耐えられない試練にはあわせない」とあるように、耐えられると判断したもののみを、私たちは体験しているのだから、耐え抜くことだとなるのですが、しかし、神はそれだけではなく、「脱出の道」も備えておられるのです。神が「脱出の道」を備えるとすれば、サタンが与えるものは、終わりのない苦しみであることがわかります。この「脱出の道」という言語は「出口、終わり、逃れの道」と言った意味の言葉(エクバシース)が使用されています。出口とは何でしょう。(1)試練が文字通り終わり、解放、自由を得た時でありましょう、普通の考えです。(2)には、苦しみと意識しなくなった時ではないでしょうか。聖霊が諭してくださり、現実は何も変わってないのだが、縛られている鎖が外れたような、そして積極的な気持ちになれた時ではないでしょうか。もはや試練を乗り越えて、新しい世界に生きるようになる時、試練を試練と思わなくなり、人生を前向きに考えることが出来た時こそ、試練に勝利をとった「出口」なのです。