聖書メッセージ 『神の栄光を求める祈り』(ルカ11:1~2)  

聖書箇所 ルカ11:1~2

11:1 さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

11:2 そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。

 

説教要旨

イエス様は、ある場所で祈っておられ、祈りが終わると、弟子の一人が「主よ。…祈りを教えてください(v1)」と求めました。主イエスは自由に思いのままに祈ればよいとは仰せられませんでした。「祈るときには、こう言いなさい(v2)」と何を祈るのか、祈りの内容を教えられました。

 

神を「父よ(v2)」と呼ぶよう教えられました。「アバ」と。「アバ」とは幼子が家の中で信頼と親しみを込めて「父ちゃん」「パパ」と呼ぶ言葉です。神は天地万物を創造され、すべてを御手の中で治めておられる主権者です。神を畏れ敬います。しかし、その神を信頼し親しく「父ちゃん」と呼ぶよう教えられたのです。イエス様は、この時父なる神の御旨に従って十字架の道を歩まれていました。ただ主イエスの十字架のゆえに罪赦され神の子どもとされ、私たちは神を「父よ(v2)」と信頼し親しく呼ぶことができるのです。神は私たちの父なる神であられるのです。父なる神は、私たちとともにおられ、私たちの存在を喜び、私たちを知っておられ、私たちの幸いを願い、私たちに真に良いものを与えてくださるのです。「御名が聖なるものとされますように(v2)」原文を見ますと、「あなたの」があります。「名」とは、神ご自身を表します。あなたご自身が他のすべての名に勝って崇められますようにとの祈りです。「御国が来ますように(v2)」これも「あなたの」があります。「国」とは神の救いの支配です。主イエスが来られ、十字架に架かり死なれ、罪と死に打ち勝ち、復活され、神の救いの支配をもたらしてくださいました。御国が広げられ、イエス様が再び来られ完成することを求める祈りです。

 

主の祈りは、主イエスが弟子たちに「教えられた祈り」であっただけではなく、まさに主イエスご自身が「父なる神に祈られていた祈り」でした。主イエスは、神さまを「父よ」と呼びかけ、祈られたのです。「あなたの御名が崇められますように」と祈られたのです。「あなたの救いの支配が来ますように」と祈られたのです。そして、主イエスは、そう祈られただけではなく、父なる神の愛に浸り、父なる神が崇められるように、そして父なる神の国が来るように歩まれたのです。主イエスが祈りの内容を教えられたのは、私たちの今の祈りと歩みを探られ整えようとされたのです。ですからこの祈りをなす時に私たちの祈りと歩みが問われます。「父よ(v2)」と呼びかけ祈る。どれほど孤独を覚えても、明日への不安が押し寄せるときにも、私たちを造られた神が天の父としてともにおられること、私たちを愛し知っていてくださり守り良いものを与えてくださることに引き戻されていくのです。「御名があがめられますように(v2)」と祈る。そうだ、私たちの歩む目的と方向性は、神が崇められることであるのだと立ち返らされるのです。今自分は人の評価を第一に気にして妬んだり、落ち込んでいたりしていたのではないか。そうではない。父なる神の御名が崇められることであると引き戻されていくのです。「御国が来ますように(v2)」と祈る。主イエスは自分が威張って楽をしてではなく、謙って忍耐して人の罪を背負い御国をもたらしてくださった歩みを覚え、私たちの歩みが主の足跡に従う歩みへと再度立たせられるのです。そして、そのような祈りと歩みの土台は「父よ」「あなたの名」「あなたの国」とあるように、父なる神の愛です。

 

「父よ、御名があがめられますように、御国が来ますように」父なる神が私たちを神の子どもとして愛してくださっておられることを覚え、父なる神への信頼に立たせていただきましょう。私たちが感謝され名声を得ることではなく、父なる神の御名が崇められることを求めていきましょう。私たちの思いや願いを絶対とし優先して歩むのではなく、試練の中で忍耐と謙りをもって御国が広げられていくことを求めていきましょう。そうしてこの週、天の父なる神の祝福の中を歩んでいきましょう。