聖書メッセージ『主を恐れる教会』(使徒2:43)

聖書箇所  使徒2:43

2:43 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。

 

説教要旨

「使徒たちの教え」「交わり」「パン裂き」「祈り」に専念していた初代教会はどのような姿として建てられていったのでしょうか。第一は「主を恐れる教会(v43)」、第二は「愛の教会(v44~v45)」、第三は「喜びの教会(v46~v47a)」そして第四は「救われる人が加えられる教会(v47b)」として建てられていったのです。

 

「すべての人に恐れが生じ(v43)」。初代教会は主への恐れが生じ、主への恐れを持ち続けていました。「主を恐れる」とは神さまをびくびく怖がるということではありません。創造者なる神への敬いがあったのです。神が祈りを聴き御業をなしてくださるとの期待があったのです。イエス・キリストは十字架で死なれ救いの御業を成し遂げ復活され生きておられ人を罪から救い新しいいのちに生かすことができるとの確信があったのです。また、神の御心に反することを恐れていました。神の前に偽らない、正直であったのです。「神を恐れる」とは旧約時代においてであって、新約時代は違うのではないかと思われる方もあるかもしれません。確かに新約時代におけるクリスチャンは神の憐れみ、イエス・キリストの十字架によってすべての罪が赦され、神に大胆に近づくことができるようになり、神を「アバ」「父ちゃん」と呼ぶ者とせられています。しかし、そうなのですが、神を恐れるとは旧約時代のことで今の新約時代は違うということではありません。(使徒9:31)(Ⅰペテロ1:17)イエス・キリストによる赦しは、神との平和、平安をもたらします。しかし、神への慣れをもたらすのではなく、神への敬い、畏れ、礼拝をもたらし続けていくのです。

 

「使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた(v43)」。病人の癒しなどイエス・キリストが公生涯でなされていたと同じような奇跡的な働きが使徒たちを通してなされていたのです。主を恐れる教会に見える主の御業がなされたのであり、逆ではありませんでした。神の御業や祝福が見えたので神を敬っていたのではなく、教会とクリスチャン一人ひとりが主への恐れを持ち続けていた、そこに見える祝福があったのです。私たちは神の御業が見えないことがあります。本当に苦しく辛い時です。でも、そういう中で御言葉と交わり、聖餐と祈りを大切にして歩み、主を恐れ、主の御業に期待していく、幾度も立ち返って主に信頼して歩んでいきます。そこに主が確かにともにおられるという御業を見せていただくことができるのです。

 

私たちはどういう教会を願っていくのでしょうか。愛の教会、喜びの教会、救われる人が加えられていく教会、いずれも私たちの願っていくべき教会の姿です。でも、その土台は主を恐れる教会です。主は生きておられると信頼していく教会でありたいのです。神は祈りを聞き御業をなしてくださると神に期待していく教会でありたいのです。イエス・キリストは生きておられ、人を罪から救い新しいいのちを与えることができるとの確信をもっている教会でありたいのです。救いも成長も自分たちではできないが、主はなしてくださるといつも主ご自身を仰ぎ見ていく教会でありたいのです。以前、会堂建設のために土地を求めていたある教会の資料を見せていただきました。「神さまが奇跡的な方法で土地を与えてくださるように祈りましょう」と記されていました。感銘しました。生きて働かれる神への恐れを持ち続けていく教会でありたいのです。

 

主は生きておられます。御言葉と交わり、聖餐と祈りに専念し、主を知り主に信頼し期待していく教会として建てられていきましょう。その時に神の働きが、主イエスが生きておられることが見える形をもって現わされていくのです。