聖書箇所 ルカ22:39~49
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
23:40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
23:42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
23:44 さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った。
23:48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、これらの出来事を見て、悲しみのあまり胸をたたきながら帰って行った。
23:49 しかし、イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れたところに立ち、これらのことを見ていた。
説教要旨 斎藤成美師
紀元30年の春、ある金曜日の午前9時頃、エルサレムの北側の郊外にある「ゴルゴダの丘」という小さな丘に、三本の十字架が立てられました。処刑です。ふたりは強盗の罪。真ん中の人物は「ナザレのイエス」。実際の十字架はイメージと違い、人間の手が届く程の高さで、足をくの字に曲げて張り付けにされるものでした。
さて、もう少しふたりの強盗に近づきます。マタイ(27:44)もマルコ(15:32)も「強盗は罵った」と記しています。しかし、ルカだけは、一人が罵り、もうひとりは窘めたと記します。どちらが正しいのでしょうか。新約聖書が書かれたギリシャ語は、文法において、一つの語(名詞、動詞)において明確性があり、言語において世界でも他に無いような言葉で、人称、性格、動作において明確な言葉です。ですから、二人が罵ったことは事実です。そしてまた、ルカの言うことも正しいのです。
罵っていた囚人一人は、罵りながらも、イエスを見ておりました。なんと落ち着いておられることか。自分達は、死の恐怖と人生の終わりを思い、やるせない気持ちをイエスにぶつけているが、イエスというお方は、他人のことばかりを考え、そして、話しておられる。それは驚きです。
この場にはサタンもいました。祭司長や律法学者、兵士、民衆たちの心を掻き立て、囚人達に恐れの心を掻き立て、そして罵りさせます。声は全て届く距離です。サタンは人々を煽ります。しかし、この十字架の所には聖霊もおられました。最後の土壇場に人間がイエスを信じるように働いています。その聖霊の助けを受けたに違いありません。囚人の一人は罵りをやめ、イエスに願ったのです。ですから、途中で罵りを止めることが出来、イエスさまに願うことができたのです。もうひとりは、残念ながら聖霊の声を聞きながら従うことが出来ませんでした。
罵るのをやめた囚人は願いました。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」(42節)これに対して、イエスさまは言われました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」。パラダイスは、王達、セレブな人たちが作った「地上の楽園」ですが、新訳聖書には3回出てきます。一つはイエスさまが使用。二つ目はIIコリント12:4(パウロの第3の天といわれるすごく素晴らしい経験)、そして黙示録2:7。イエスさまは、時間が迫る中で、分かりやすい言葉で答えました。「わたしと一緒に」ということで彼は罪赦され、御国に入れられたことの約束を得ました。もっと言えば、イエスさまは「あなたの罪をわたしが確かに引き受けた」と言われたのです。そして、イエスさまは全ての人の罪を背負い、神の裁きを受け苦しみ死に地獄まで落とされました。
誰にも、聖霊は悟るように働いています。ですから、常識人は何をしなければならないか知っています。一人の囚人のように、現実の諸問題で恐れ躊躇し、なかなか決心出来ないのです。サタンが刺激しますから諸問題の方に引き付けられます。あなたは、サタンの死と怖れの声に従い、自分の心を乱し続けるでしょうか。聖霊の助けの声に従い、救い主に寄りすがる、賢明な道を選びたいものです。