聖書箇所 ヨハネ13:31~35
13:31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。
13:32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。
13:33 子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。
13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」
説教要旨
年間聖句は、主への恐れをもっていた教会を記し、続いて自らの所有物を売り必要に応じて分配がなされていた教会を記しております。(使徒2:44~45)初代教会は愛の教会でした。互いに愛する教会でした。愛の教会であったのは、主イエスの教えに基づいてでした。主イエスは弟子たちを父のみもとに行く最後の時まで愛され、極みまで愛されました。(v1)そして、なされたことは弟子たちの汚れた足を手に取り洗われました。洗足は、主イエスの十字架の死による弟子たちの罪の洗い清めを表し、また弟子たちに互いに相手の下に自らを置き仕え合うことを教えました。
洗足を踏まえつつ、今日の御言葉があります。v31でイスカリオテ・ユダが外に出て行き主イエスを裏切る時が来ました。主イエスは「十字架の死と復活の栄光」と「別離」を語られ、地上に残されていく弟子たち(教会)に「…互いに愛し合いなさい…(v34)」と語られました。「愛する」とはアガパオーという言葉で、名詞はアガペーです。アガペーとは「見返りを求めない一方的な愛」です。反対はエロースです。「相手に注げば見返りが当然あると考える愛」です。アガペーの愛は結果として見返りがあるということもあるでしょう。相手の態度が変わっていくことがあるでしょう。でも、それは結果であって、それを求めないのです。見返りがなくて良いのです。初代教会は、自分の所有物を売り与えていました。与えっぱなしでした。そして、見返りを求めない愛とは何か。相手の下に自分を置くという仕えることです。主イエスが弟子たちを最後までそして極みまで愛されたのは、主イエスが弟子たちに最後までそして極みまで仕えられたということです。例えば相手に挨拶をする。相手は無視をする。その時に怒らず、投げ出さず、忍耐し、また挨拶をする。それがアガペーの愛です。しかし相手の下に身を置くことなければ、見返りを求めてしまいます。「なんだ、あの態度は」と。愛とは、こちら側が忍耐し、謙り、損をすることです。こちら側が削られることです。こちら側がうめいていることです。
「互いに愛し合いなさい(v34)」が「新しい戒め(v34)」と言われています。しかし、すでにモーセ律法において教えられていました。では、何が「新しい」のでしょうか。「わたしがあなたがたを愛した(v34)」ということです。弟子たちは三年半ともに歩む中で主イエスに愛された、仕えられた、大切にされたということを経験してきました。またこの洗足の体験を通しその時には直ぐに分からなかったのですが十字架の愛を実感しました。確かに旧約時代も神はイスラエルの民をエジプト脱出させるなど憐れみ愛されました。でも、神の愛は受肉しておりませんでした。(Ⅰヨハネ1:1)さらに、助け主なる聖霊のことが語られます。聖霊が私たちのうちに住み、聖霊は絶えず私たちを愛する者へ、仕える者へと助けていてくださるのです。(14:15~16)主イエスの十字架の愛と救いは私たちを深く造り変えていくのです。聖霊は私たちが愛することにおいて助けを与えてくださるのです。ですから新しい戒めです。私たちはそんなことはないと思うかもしれません。愛することにおいて今課題があるからです。でも、もう少し考えたいのです。自分は仕えられることばかりを求める者だと気づかされてきているのではないですか。仕える歩みをしていきたいという思いがありそこで戦っているのではないですか。それ自体がイエスさまがあなたを愛しておられ、聖霊があなたのうちに働いてくださっている表れです。ですから、私たちは、ますますイエスさまの十字架の愛と救いに留まり、聖霊の助けを求めていきましょう。「神さま、愛せない私を憐れんでください」と祈り求め続けていきましょう。「愛の教会」へともに育まれていくことができるのです。