聖書箇所 ヨハネ15:9~11
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。
15:11 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。
説教要旨
初代教会は、毎日心を一つにして宮に集まっていました。と同時に家々で聖餐と愛餐を持ち神を賛美していました。(使徒2:46~47)教会に「喜び」があったのです。主イエスとの交わりの喜びとそれに基づく互いの交わりの喜びがありました。それは主イエスが十字架を前にして仰せられていたことでした。ヨハネ15章において主イエスはぶどうの木、弟子たちはその枝であると仰せられました。私たちは主イエスの恵みによって主イエスに繋がったのです。その上で主イエスは私たちに仰せれています。「わたしにとどまりなさい(v4)」と。主イエスと私たちは恵みによって繋がれた関係。でも、そこで満足し安住するのではなく日ごとに主イエスにとどまることが命じられているのです。
「わたしもあなたがたを愛しました(v9)」主イエスは私たちを愛し、身代わりに十字架で死なれ永遠のいのちを与えてくださいました。主イエスはその私たちにはっきりと命じられます。「わたしの愛にとどまりなさい(v9)」朝ごとに新しい主イエスの愛に対して朝ごとに新しく主イエスに応答するのです。では、主イエスの愛にとどまるとはどういうことでしょうか。主イエスの戒めを守ることです。(v10)御旨に従うことです。主イエスの御旨の一つは私たちが互いに愛し合うことです。一方的に相手を愛していくことです。私たちはそんなことを聞くと主イエスの愛にとどまれない、主イエスの戒めを守れない、「重荷だ」と思ってしまいます。でも、わたしの戒めを「守るなら(v10)」とは、戒めを守っていくようになっていくのだ、実現していくのだという動詞の形となっております。主イエスの一方的な愛と聖霊の助けが土台にあるのです。命令と同時に約束です。ですから主イエスの戒めは重荷とはならないのです。
主イエスの愛にとどまる教会はどのようなものが与えられていくのでしょうか。「喜び」です。(v11)「喜びの教会」です。主イエスが父なる神に愛され、父なる神に従う愛の交わりの喜びが教会のうちにあり、教会が喜びに満ち溢れていくのです。礼拝の喜びです。礼拝は主の前にひれ伏すことです。同時に主との交わりの喜びです。父なる神と主イエスとの交わりの喜びをこの世のいかなるものも奪うことはできません。(16:20~22)さらに「喜びの教会」とは主にある交わりの喜び、礼拝の喜びだけではありません。この15章では、主イエスはぶどうの木、私たちがその枝であり、繋がっていると「多くの実を結ぶ」ことが言われています。(v5)(v8)(v16)御霊の実を結ぶというように解釈される場合がありますが、これはそういう意味ではありません。主イエスが父なる神の愛にとどまり、父なる神の御旨に従われたのは、人が永遠のいのちを持つためでした。「多くの実を結ぶ」とは福音の働きの実が結ばれ、神の栄光が現わされていく喜びです。宣教の喜びです。神の御国が広げられていく喜びです。一人の人がイエスさまを信じる喜びです。これ以上の喜びはありません。そして、宣教の喜びの実は、自分の望むところを歩き結ばれるのではなく、望まないところに連れて行かれ主に従っていくことによって結ばれていくのです。(ヨハネ21:18~19)宣教の喜びは苦難を経ての喜びです。
「わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい(v9)」朝ごとに新しい主イエスの愛に対し私たちの方も朝ごとに新しく応答し聖霊の助けによって主イエスの戒めを守り喜びの教会として歩んでいくことができるのです。昨日主にとどまって歩めた。でも気を緩めないで今日新たに主イエスの愛に応答し喜びのうちを歩んでいきましょう。昨日ダメだった。罪の痛みがある。でも主イエスは「わたしはあなたがたを愛した。十字架で愛した」と仰せくださっておられますので、今日新たに主イエスの愛に応答し喜びのうちを歩んでいきましょう。